2020年4月某日私の愛車プラドの走行距離が54万キロ、光で1.8秒掛かる距離を上回った。22年で地球を13周半したことになる。一人で一台を運転した距離としては短くはない。その間、私は頭頂部の光沢が増し顔の皺も多くなった。車は艶がなくなってきてマット塗装になりつつある。サイドステップも石に乗り上げて曲がってしまったが、未だ体調は頗る元気でちっとも衰えていない。モノ(物質・物体)は、使う人の心や感情を理解し反映する。そしてモノは人が注いだ時間と愛情をエネルギーとして内部保存するのだ。私は何時もそう感じている。新しいモノに目が行くと、今まで使っていたモノが壊れてしまうという経験が何回もある。 今乗っているプラドには溢れる愛情を注いで来た。「おまえは最高、私にとって世界一」何時もそう思いながら運転している。だから古くなっても車としてのエネルギーはちっとも衰えていないのだ。この電子社会にあって、彫刻はモノ(物質)の形や有り様を作り出す原始的なジャンルであることに変わりはない。現代人に敬遠される長時間労働・ハード作業・汚れるという工程を踏む。しかしここで最重要なのは、彫刻は作者が注いだ情念を吸収し蓄えるということも忘れてはならない。すなわち、人とモノ(思念と物質)との密接な相関関係があって成立する不思議なジャンルなのだ。人類は地球上で文明を作り発展させてきた。その増幅する便利さの中で、人が生命体として持っていたはずの宇宙的エネルギー・フォースを退化させてきたと言われている。・・・でも、未だ全てを失ったわけではない!! それを地道に体現しているのが美や芸の術、彫刻なのだ。
美術や芸術は、人間社会で認められてナンボ、もしくは人の心を動かしてこそ価値があるという考え方がある。社会的な観点から美術芸術の概念を考察すれば、社会との関係性が必要不可欠になるのは分かるのだが、人とモノという一元的な観点から、上記のオーナーとプラドとの関係をみてみると、人がモノに対して情念を傾注することで、モノの有り様を変容させているとすれば、それって美術芸術が成立する最もプリミティブな要因になるような気がしている。