88    演習とクリティック・プログラム

2013.4.6.
一昨日、JBDのArtist Critic Program(ACP)から "CLOSET" という立派な冊子が送られてきた。
CLOSET 「学生?アーチスト? アーチストとしての自覚と責任」という副題が付せられている。
中身は、一昨年のJBD院授業で、私の演習カリキュラムとACPとが共催して行った、授業履修学生による個展課題の総括評論集である。
ザッと目を通したところ、ある学生が個展の中途で展示方法を変えた事(突然の変更に私も驚いたのだが)に対する批判がが、問題提起として書かれているのが目を引いた。担当講師の圧力や指示で展示を変えたのでは?という評論サイドからの問題提起も読み取れる。
演習の担当講師から見て、課題の意図・目的等が認識されないまま推論され、問題提起されているのが、少なからず残念なところなのだが、美術という枠組みの中で、視点の違う2つのプログラムが共催し、学生の学内個展ををクリティックの視点からも盛り上げていただいたことは、大いに評価できる所である。
個展を開催する上に於いて、発表者は美術という範疇で何をやっても構わないけれど、その全てのリアクションは発表者に還元され、同時に、その全ての責任は発表者にある。そのことを授業の時間軸上で、常に強調してきた経緯がある。だから、この誌上で取り上げられている履修者も、同様に認識しているはず。たとえ授業課題上の学内個展と言えども同等で、だからこそ発表者は課題発表の範疇を超えて、発表者として作家として真剣なのである。
そもそも第三者に圧力を掛けられて、個展内容や展示を中途変更する等ということは、あり得ない話しなのである。もし発表者が中途で展示変更したとしても、その全ては発表者の意志と決断によるものだ。中途変更したことは、良いことか?悪いことか?という問題提起なら十分に理解できるし、最終的に筆者の嗜好や、作品の持つ意味合いにまで及んくるのも良く分かる。私も、中途変更が良いことだとは思わない。況してや第2〜第3の変更は、作品の質のみならず、空間の意味合いやインタラクティブ性も大きく変容させてしまったのだから。
作者は個展の時間経過の中で、鑑賞者のリアクションも含めた時間経過の総体としての作品化を試みた?と穿ちに穿って言えなくもない。なんて曲解も生まれてくるのかも知れないが、いずれにしても、発表者が中途変更した背後に、担当講師の指示と圧力があるのでは?というフォーカスには、大きなピントのズレが感じられた。
まさかACPの作為的なプロパガンダじゃないよね。
普段の授業では、既成概念に捕らわれない発想と展開を、個々の学生レベルに応じて課題化しているつもりなのだが、所詮チューターサイドの思考や好みの範疇からは抜け出せないというジレンマがある。マイノリティーに近い私自身の感覚と感性を、強要しないことを心がけかながら、何時も履修者に言い続けていることは、「何をやっても構わないが、中途半端に終わることは何もしないことよりも劣る。やり始めたら徹底的にやってみる事。それで失敗するのも良し、成功するのも良し。総ては作者に帰結する。」

Araki first Araki second Araki thired
Hoashi Mizuta 写真上左〜右:荒木美由「Zeit-標本」
- - - - - - - - - - - 最初~変更~最終形
写真下左:帆足枝里子「還元の部屋」
写真下右:水田有紀「ギャーギャーギャー」

自らのセンスと嗜好と知識と判断で、作品として表出させる。その結果として、様々なリアクションがあるのは素晴らしいこと。逆に、アーチストとして惨めなのは、何のリアクションもないこと。無視されることかも知れない。ただそれら諸々を含めて、美術・アートというジャンルは在る。
時代をフォローしない表現は、シカトされる事が多い。だからといって時代の「こませ」になることが、良いことだとは思わない。
前回も書いたように、1000人のジャスパージョーンズや村上隆、100人のマーティンクリードになるよりも、一人の自分である方がましだと思っている。だからこそ、洞察する目と、自らを信じ継続し妥協しない勇気と責任が必要になるのだ。
はたまた、それら全てに無視を決めることも一つの方法論かも知れないのだが、学生さんには、多くのことを経験し会得し成長して欲しいと願っている。
実は、会得したい張本人は私でもある。

されど雑談

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