2023年

昨年から〜2023年9月〜10月 コラボレーション展の準備と製作

野田裕示氏とのコラボレーション展も今回で5回目になる。お互いのやり方は分かっていて、早めにスタートした。
通常の手筈では、私が先行してベースの形を作り、想いも含めて野田氏にバトンタッチするコラボのやり方である。
昨年から今年の前半にかけては、広島空港の円柱作品を再設置するために、それぞれの角度計算や空間のプランニング・レイアウト等に時間を費やした。(前回・下に書いた記事)
もちろん今年に入ってから、同時進行的に一寸ずつだがコラボ石の製作は進めていた。問題は私の仕事場で出来上がった石の形(野田氏のためのキャンバス)を、どうやって彼のアトリエに搬入するかが問題だった。トラックが使えれば難儀はしないのだが、道路事情等で彼のアトリエにユニックトラックで持ち込む事は不可能なのである。
結局、完成した形を手で持てる程度に分割し、私の普段使いの車に乗せて彼のアトリエに搬入する、そこで再構築して元の形に戻すという方法をとらざるを得ない。というよりそれしか方法が無いのだ。
 我々が若かった頃は、宇部の現代日本彫刻展や、ギャラリーや美術館でのコラボレーション展のために、4ton〜6tonもある石を使って、私が形を仕上げてから野田氏がその場で彼の構想した絵を描いていくという遣り方、もしくはキャラリー所有の倉庫に完成した石を搬入して、そこで野田氏が描くというやり方で多くの作品を創ったが・・・・。最早お互いにそんな無茶が効く歳ではない。
 手で運べる程の石のパーツにして、野田氏のアトリエに運ぶしか方法が無いのだ。
組み上げて後の安全性も考慮に入れて、ステンレスのボルトとナットを埋め込んで固定し、再構築と再度解体ができるような方法で組み上げなければならないのだ。
そのシステム作りに多くの時間が掛かってしまった。
結局、最初の石を野田氏のアトリエに持ち込めたのは、3月も終わる頃だった。私とギャラリーの土倉さんと野田氏と野田氏の息子さんの4人で何とか持ち込めだのだ。
その2ヶ月後、第2期の石を搬入。そして8月の終わり頃、1人で持てる小品を6点程持参した。

 展覧会は、10月10日(火)から、ギャルリー東京ユマニテで始まる。
 さて、どんな空気が生まれるのか・・・・?

collaboration 2works 2023
(上の写真は、DM用にギャラリーで撮影した画像です)






7月〜8月 真夏の製作

広島空港正面に在った円柱作品は、残念ながら去年の夏に全て撤去されてしまった。その半数強の円柱を空港ビルの東サイドにある県所有の空き地にキープしていて、この空き地を新たな移設場所にして再設置プランを纏め上げるのが今年度の計画だ。
それに向けて、周辺環境も巻き込みながら円柱空間の存在の有り様に取り組んでいる。
今は、この8月中半に開催する第2回の全体会議に向けて、マケットを製作している最中である。
縮尺1/30で製作しているのだが、全体としては1u以上ある大きさ。中心の円形はなだらかな凹み面を作った白御影石を使っているから、室内でマケット全体を移動させることは簡単じゃない重さだ。
でもこれだけのスケールとスペースがなければ、円柱それぞれのバランスや、微妙な配置が決まらない。
完成したら、つくばの自宅から1000km離れた広島空港まで、車に積んで持って行く予定だ。
幾つになっても、彫刻家としては重労働が付きものなのだ。正にこの暑さの中、体力勝負というところか。
columns maqette
マケット
columns plan
maqette plan紙の上での正確な位置出し。





4月 お袋、残り時間を記録中

4月に入って間もない頃、お袋が入っているグループホームから連絡があった。母はこのところ食事が取れなくなって寝たきりが続き、点滴で持ちこたえているという内容だった。
そしてその数日後、再度連絡があった。突如として起き上がり、母親(30年前に亡くなった実家の母)が里で待っているから行かなければならないと言い続け、ホーム内を一昼夜歩き回っているという。
正に死に直面した老人の「中治り現象」なのか?。過去の記憶回路に取り込まれて、幻を見たり動き回ったりする現象なのかも知れない。
一人っ子の私が、母の最後を見取らなければという思いがあって、急いで広島に向う。
半月ほど前に広島に行った時は、数軒のホテルを泊まり継いで何とか乗り切ったのだが、今回は足を確保するのもホテルを連続で確保するのも、春休みとG7の影響なのか非常に困難である。同時に今回は長期になることを覚悟して、自分の車で広島に行くことにした。
母がグループホームでお世話になるようになってから、誰も住んでいない実家の片付けと大掃除をして、何とか住める空間とインフラを確保した。
そしてお袋に面会した時は、中治り現象は既に去っていて、落ち着いている状態だった。私の呼びかけにも薄らと笑顔を作りながら眠り続ける母だった。
朝夕2回ほど母に会いに行く。相変わらず食事は取れない、点滴で保てている状態だ。
その後も同様の状態は続き、数日経った朝グループホームから連絡が入った。また母が里に行くと言って歩き始めたらしい。私が駆けつけて、玄関を出ようとする母を宥めたり押し戻したりしても、全く怯まない。仕方なくループホームの許可を得て、私子車に母を乗せて出かけることにした。
先ずは自宅に戻って、仏壇と墓参りをした。母は嘗て自分が座っていたポジションに当たり前のように座り、見た目は落ち着いていた。そして念願の母の里にも行った。もちろん母の兄弟も居るはずはない。私の従兄夫婦が居らして、おもてなしを受けた。母の両親が眠っている墓にも、裏山の坂道を登ってお参りもした。いざ帰ろうとしたとき、「お母さんは隣の部屋におって? 何所に行っちゃった? いつ帰ってきて?」と言い始めた。脳内興奮は未だ鎮まっていないのだ。エスカレートを続けている・・・。とにかくグループホームとの約束の時間が迫っていて、ホームに連れて帰ったのだが、ホームに着いてからも興奮は収まらず、遂に翌朝まで不眠で歩き回っていたとか、翌夕まで興奮は続いていて、既に亡くなった近所のおばさん達(お婆さん達)と待ち合わせていると言って、ホームの外に出ようとする。私やヘルパーさんの如何なる説得も全く受け付ける気配はなかった。その後1〜2時間ほどして、さすがに疲れたのか、私はもう寝ると言ってベットに入ったっきり丸2日間、起き上がるエネルギーも尽きたようで、死んだように寝続けていた。
4日間、点滴も食事も摂っていない。僅かな水分を摂っているだけ・・・・。これからどうなるのか見当も付かない。このまま点滴も無く食事も摂れないと長くは持たないだろう。無理矢理胃に穴を開けて栄養分を流し込んだり、etcの延命処置等は母も喜ばないし、私も苦しむ母を見たくはない。
今はただ、お袋の94年間の人生に乾杯!

翌日、少しだけ元気を取り戻せたようで、少し座って会話も出来た。
その翌日も母に会いに行った。正に驚きで昼ご飯も晩ご飯も食べて、嘗ての状態に戻っていたのだ。一時はもう長くないと思い葬儀場を回って、ここならという場所を見つけていたのだが、当分必要ないのかも知れない。

広島に来て二週間が過ぎたが、お袋は上記の様な容態を2日〜3日周期で繰り返している。このままお袋の命が尽きるまで実家で待機するか? 一旦筑波に帰ってリセットするか? 結論として、一旦つくばに帰ることにした。グループホームからの呼び出しに何時でも対応できるよう、重要な荷物や鞄は未だ車に積みっぱなしである。





3月 女子美最後の日

22年前に立体アート学科が立ち上がって翌年、2年生が実在実習で初めて石工房に来たときから、まるで主のように石工房に居た。鑿焼きのための鞴を作ったり、作業場の道具の整理をしたりetc.かれこれ21年間、学生達と石場を盛り上げて来た気がする。
最初は数年で辞めるだろうだろうと思っていのたが、こんなにも長く居着くことになろうとは思ってもいなかったのだ。年を取るに従って、学生達から若者のエネルギーをもらうことの大切さに気付かされ、まさかの72歳になるまで招聘教授を続けてきた。
立体アートの石場を立ち上げた当時の学生がアーチストとして独り立ちし、教鞭を執ったり准教授として立体アートの運営に携わったりしている昨今、ここらが潮時だ・・・、という思いが年々増してきて、いよいよこの3月いっぱいで石場を去る。
在校の学生や助手さん達から別れの言葉を告げられるのだが、これが今生の別れではないという解釈で、そのうちまた来るよと言い残して石場を後にした。

以下にある3枚の写真は、先日石場で撮ったモノだが、その下の羅列写真は2002年〜2023年まで21年間の石場スナップ写真からピックアップした。
Joshibi-stone studio Joshibi-stone studio Joshibi-stone studio
Joshibi-stone studio history





2月 突然の訃報

2月に入って間もない頃、雨引のメールに訃報の連絡が入ってきた。
前回の雨引の里と彫刻展まで、メンバーとして活躍されていた佐藤比南子さんが心臓のトラブルでお亡くなりになったらしい。葬儀はご家族で、しめやかに執り行われたとのことだ。
私より少し年上でだけど、無邪気さを保たれている素晴らしいアーチストだった。昨年の12月に雨引の里と彫刻展のインフォメーションセンターでお会いして、佐藤さんの方から「お元気ですか」とお声掛けいただいて、会話を楽しんだ記憶が真新しい。
折しも佐藤さんの個展が開催されている最中で、まさか遺作展を拝見することになろうとは想いもしなかったのだ。

心より御冥福をお祈り申し上げます。

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1月 2023年に入った

2023年の正月が明けて、新年早々に広島に帰郷した。お袋に会うためだ。
昨年末に、お袋の居るGHから連絡があり、食事が取れなくなって来ているとのこと。とにかく何をさて置いてもお袋に会いに行かなければ・・・。
予想していたよりも元気だった。この一両日で、少しずつ食が戻ってきたとのこと。コロナ禍にも関わらず、GHの方の配慮で3年ぶりにお袋と水入らずで過ごせたのは貴重だった。
翌日つくばに帰ってきた。 帰宅翌日に雨引観音へ初詣。おみくじは大吉だった。

そう言えば今年、6回目の年男だよ。

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