2000年のミレニアムを過ぎた頃から、私は不可思議な存在や形態に興味を持ち始めている。条理で判断できたり合理的な形態だったり、フィジカルな法則で片付けられるものには興味が無くなってきつつある。一体何なのか理解に苦しむ形態にとても興味があるのだ。彫刻を作り出すことを自分の生涯の仕事と思って生きてきたのだが、さてさてここに来て、自分の感性でビリビリ感じるモノと、世の中のパブリックインタレストとが、自身の中で乖離し始めているのを感じている。今時のアーチストや彫刻家は、人を作ったり動物を作ったりする輩が多い。誰にでも理解できるモノが持て囃されているのだが、私はそれら具体的な具象形態には興味が無い。1個の大きな玉石(丸い自然石)に削岩機(石に円筒形の深い穴を空けるエアー工具)で、石の表面から中心付近に向けて穴を空ける。開けた穴の先端を目指して次の穴を空けて行く。そうやって、丸い石の表面から中心に向かって次々に穴を開ける。別にどんな形を作ろうなんて意図してやっている作業ではない。只々無機質の石の中に気道を通し、呼気と吸気の流れを作る。それが原始生命を生み出すことの様にワクワクする作業なのだ。穴を開け終わって、1個の石が呼吸を始めたら、それで制作コンセプトは終わるはずなのだが、ここで終わっては未だロジカルな作業のままである。これからが私自身のラジカルな嗜好の領域に分け入る。空けた穴の一本一本を外側から彫り出していくのだ。それが何なのか?何に成るのかなんて分からないまま、只々黙々と穴を彫り出していく作業を続ける。2年後その結果として、針先に穴の空いたウニのような外形が出没した。これを、つくば地場展で地元の農家の庭に設置してみた。この不可思議な物体と農家の庭との対峙が、日本の伝統的な民話や神話・それらを生み出してきた美意識の範疇だと感じた。何故なら、日本の民話や神話に出てくる形態は、非常に不可思議でアブストラクトなのだ。今はこの息を彫ると題した物体は、我が家の庭にストックしてある。穴の中に不純物が入り込まないように、白い発泡ウレタンで栓をして、上に保護シートをかけているのだが、彫刻が窒息しないように、たまにシートを取って新鮮な空気を通す。 この不可思議な形態を見る度に、昔話を作っているような、ワクワクする自分に舞い戻るのだ。