「ただの雑談」コーナーで書いた記事を、纏めて1ページにしたものです。



 時間=間時

 2006.9月吉日、首都高の渋滞に嵌って悶々としている時、感じたことがあった。
全世界・全宇宙を取り込んで、くまなく止めどなく過ぎ去り経過する今という瞬間を、手に取れる物の様にリアルに感じたのだ。え!そんなの誰でも感じてるよ・・・。確かに全ての事物事象は今という瞬間に介在し存在しているのだから、人畜総てが今を感じ 今という瞬間を生きているわけだ。 でも・・・、渋滞の車の中で、この瞬間の止めどない連続が、非常に不可思議なモノとして感じられたのだ。
 今の瞬間を認識できるから生きて活動しているのは分かるのだが、もしそうだとすれば、この瞬間の1秒前、0.1秒前は一体ナニ? それらは今という瞬間の連続体上で、既に過ぎ去った事象として、今の瞬間には存在し得ない訳だ。ただ、私の脳に事象の残像として記憶されているに過ぎないのだ。例えば、今という瞬間には0.00001秒以前の事象も存在しえないのだが、毎秒24コマの瞬間映像の連続が、映画として認識されるように、脳に蓄積した今という瞬間の記憶の連続は、時空のストーリーとして、自分を取り巻く世界を安定的に保ち続けるのに役立っているに過ぎない。それは感覚上の秩序保持性と呼べなくもないのだが、もし逆に考えると、瞬間事象の記憶を脳裏に蓄積することが出来なければ、自分を取り巻く、全ての事象や秩序はバラバラに崩壊してしまうことになる。それはただ時間の連続体の中で、瞬間的に、もしくは無秩序に、今在るという事だけでしかない。総ての因果律は崩壊するのだ。

 記憶の話から事象の話に戻してみよう。過去から延々と続く時間連続帯の中で、今の瞬間のみが唯一実在し得る存在だとすると、この時空間(この世)の中で、全ての秩序を保ち得る唯一の規定は、時間の不可逆的連続性に他ならないのではないか。もし今という瞬間が、記憶しない脳のように連続性を欠いたとすると、全ての秩序や因果律は崩壊し、不安定で不確定な時空体になってしまうからなのだ。時空間を規定している唯一の枷が、この時間の不可逆的連続性だとすると、過去から現在そして未来へと続くプラスの方向性を持った連続帯が、今のこの宇宙(時空帯)である。そして時間の不可逆性連続帯が、宇宙を規定し統合していることになるのだ。
え!! もし、この不可逆性連続帯としての時間が、時空帯(今の宇宙)を成立させる基底的十分条件だとすると、逆に未来から現在そして過去という不可逆的マイナス方向の連続性を持った、時空帯も存在しうることにならないか?。そんな逆の時空帯が存在しても、ちっとも理不尽じゃないんじゃないか?、況んや、そんな逆時空帯が存在できない理由は何処にも無いことにならないか。
その逆時空帯では、私たちの属している時空帯での世界観や科学理論、感性や数学方程式等々は全く使い物にならないだけなのだ。逆に言えば、マイナス時空帯(逆時空帯)では、それなりの秩序や理論、そして逆因果律がくまなく介在し、統合理論として全体を支配するわけだから何の問題もないはずだ。
すなわち、エントロピーが増大する方向で連続性を持っているのが、我々のいる時空帯であり、エントロピーが減少する方向で連続性を持った世界が、マイナス時空帯になるのだ。
 それではその逆時空帯はどんなモノなのかを考察してみよう。生命は死という事象から出発(この世に誕生)して、エネルギーを放出しながら生存し、最終的に自らの肉体の細胞統合の末、母親の胎内に戻り、生殖という事象で消滅する。物は崩壊という事象から出発して、生成という事象で終わる。太陽は光やエネルギーや重力を宇宙から強く吸収しながら、自らの誕生へと向かう。重力とは引き合う力じゃなくて、反発する力として働く。全ての事が、我々の居る世界でいうところの、結果から原因へと向かうのだ。それは映画のフィルムを逆回しするのに似ているのかも知れない。我々のいる時空帯での常識的因果律や論理とは全く逆なのだ。だからといって、マイナス時空帯での統一論理構築には何の妨げにもならない気がする。いや、おそらく逆世界での統一理論構築は可能なのだ。
ただ一点、非常に重要なことは、マイナス時空帯の世界に於いても、時間は不可逆性連続体だということである。それが唯一の逆時空帯の既定条件になるはずだ。time and space
 さてここで、もっと推論を進めるとすれば、プラスとマイナスの相反する2つの時空帯において、現実的共通項(接点)とは何なのか? ということである。かつてアインシュタインの一般相対性理論の起点として、モノの動きを計り知る共通項として光速があったように、ここでも相反する時空帯の共通基点が在る。もう皆さんもお分かりだと思うのだが、全ての事物事象は今という瞬間に介在し、存在しているということなのだ。この瞬間の概念こそが、2つの相反する時空帯の唯一の現実的共通項になる。言い換えれば、点対称にある2つの逆時空帯の原点のような位置に、今という瞬間が現実に共通事象として存在するのだ。この推論をただの空想物語で終わらせない現実的な事象として、今という瞬間の同時性が介在するわけだ。 これってスゴイ事かも知れない。

 話を人の記憶に戻そう。もし脳が瞬間の事象を、記憶の連続体として蓄積しないとすれば、現世の全ては混沌としたカオスの中にあることは先に述べたのだが、逆に、残像としての記憶に左右されず、今の瞬間をこの時空帯から離脱できる唯一の出口だとして認識すれば、そしてその瞬間を純粋に有りのまま事象として感じる事が出来れば、2つの相反した時空帯を同時に感知できる可能性があるのではないか・・・? 2つの時空帯の唯一の接点が、今という瞬間だとすれば、その瞬間に如何に自分の感性を解放するか・・・なのだ。
逆時空帯の過ぎ去った記憶として、我々の居る時空帯での未来の事象が読み取れるかも知れない・・・・・?

車の運転も悪くない。渋滞に巻き込まれるのも悪くない、と思いながら、こんな複雑でアホなことを、真剣に考えている。そして、今という瞬間に、自分の感性を解放するためにはどうしたらいいか、初期の訓練を始めている馬鹿がいる。今年の夏休みは相当に暇だったのかも、なんて思いながら。


 推論 - 瞬間とは

 上記にある「時間=間時」の続き。
困ったことにまた、取り留めのない疑問が沸いてくるのを抑えられない。私は科学者じゃないから、推論の背後にある科学的理論や法則を熟知している訳じゃない。全く身勝手に、感覚的に想像するだけなのだ。専門家から見れば実にバカバカしいことだとは承知しながら、自分の観念やイマジネーションの固形化を防ぐために、頭を柔らかく保つ一つの訓練として、自らの疑問に入り込んでみる。
「今という瞬間」とは一体何?。
「今という瞬間」が、相反する時空帯(プラスとマイナスの時空帯)の共通基点になっていることは上記の「時間=間時」で推論したのだが、その「今という瞬間」とは一体何なのか? 時間上の瞬間を超高倍率の時間顕微鏡で探っていくとすると、一体何処から何処までが「今という瞬間」なのか? 連続しながら繋がっていく様に見える「今という瞬間」の最先端は何処なのか?そこには何があるのか?

今とは?
時間というテーマで考えて行くと、2つの考察経路があるんじゃないかと思っている。
その一つの経路として先ず、3次元空間での相対的な位置ベクトルについて考えてみよう。それぞれの位置ベクトルを解析するためには、時間は不可欠な要素となって来る。すなわち、Aという物(現象)と、Bという物(現象)の相対的な位置ベクトルを解析する上で、2点間の距離すなわち時間的距離が関係してくることになるわけだ。(星Aは、星Bから50億光年離れているとすると、その位置ベクトルの時間的相違は、星Aでの「今という瞬間」と星Bでの「今という瞬間」との間に、時間的な距離があるということである。すなわち2つの事象での同時性の概念が相対的な時間距離によって規定されているのだ。それは星の現象だけには留まらなくて、日本にある私の家の食卓テーブルの上の花瓶が、今という瞬間に壊れたという現象と、ドイツの友人宅の食卓テーブルの上の花瓶が、今という瞬間に壊れたという現象が、正確に同時に起こった事だとするためには、空間距離(時間的距離)の概念が不可欠だからである。)
もし「今という瞬間」を、連続して流れている時間帯の上の平面として考えると、宇宙は我々が認識している平坦な形にはならない。100億光年離れた星の今は、我々が今見ている位置にはないし、果たしてそれが存在しているかどうかも怪しくなるのである。このことは「今という瞬間」(時間)を考える上で重要なことである。相対的に遠く離れた場所での出来事は、その距離に比例して時間のズレが増大するのだ。既に消え去ってしまった可能性のある星を、未だに存在する星として認識せざるを得ないし、今は存在しないと認識している空間に、新たな星が存在している可能性もあるのだ。ここで重要なことは、事象を認識するということは、総ての物理的科学的な存在として、そこに在るということである。新たに生まれた星が、未だに光や電波で認識されない時、総ての現象(そこに新たな星が存在するという(電磁波等)、科学的な根拠の総て)は、無なのだ。すなわち星は無いということなのである。time and space
我々の思考や観念は、瞬時に何百億光年彼方まで瞬時に飛び越えることが出来る。脳の中では、100億光年離れた空間に今、新たな星が生まれたという事を簡単に想像できるのだが、現実としては今から100億年経過するまでは何も無いのだ。左図の「時空間モデル」を見ていただくと、今という瞬間が時空間的に単純な平面ではないことが窺えると思うのだが、逆に今という起点が、至る所(統一時空帯の今という瞬間平面上に連続して)に在って、それぞれの起点からそれぞれの時空基軸での、今という瞬間面が擂り鉢状に伸びていると言った方がいいのかも知れない。それこそ100億光年彼方と、今私のいる場所とでは、基本的に時空の起点が100億光年程違っているのだから、「今という瞬間」が同時性の現象として成立するはずはないのだ。
宇宙全体が、プラス時空帯の大きな流れに相対的に乗っかっていると考えた方がいいのかも知れない。ということは、「今という瞬間」は、全宇宙同時の総体的「今という瞬間」じゃなくて、私の感知する非常に狭い範囲での「今という瞬間」、それが唯一の「今という瞬間」だと言うことが出来るのではないか。time and space
上図は、時間と空間の図である。私がいる地点を基軸にした「現実的に認識出来る領域」は、今現在我々の認識している宇宙像である。グラフ上では今と同時に起こった星Aの出来事も、私に取っては時間が経過しないと認識することが出来ないわけだ。
話は少し逸れるのだが、我々を取り巻いている天空全体(宇宙全体)から、3°K宇宙輻射という非常に波長の長〜い光が、遠い星の背後からくまなく届いているらしい。150億年前、宇宙が始まった時点(ビッグバン)の光だそうだ。もちろん肉眼では見えない。
宇宙は小さな点から始まったらしい。ビッグバンが起こった時点の大きさは想像だに出来ないのだが、超高エネルギー体としての小さな点から始まったとか。その小さな点(全宇宙の物質が閉じこめられた超高密度・超高温(数千兆度)、超高エネルギー点)が大爆発を起こして今の宇宙へと拡がり始めたらしいのだが、不思議なことに、その150億年前の大爆発の光の中に(その現象の中に)、我々も含めて宇宙全体が、未だに閉じこめられているという事にならないか?。
大きさとは相対的概念である。空間も時間も相対的概念だと言うことが出来る。他と比較して、大きいとか広いとか長いとか、短いとか狭いとか小さいとかという概念が生まれてくる。全宇宙が小さな点として超高エネルギー状態であったビックバン時点と、150億年経過したと思われる今と、その真っ直中に未だに居るという事では何ら変わっていないのだから、その中にいる我々にとっては、相対的大きさの概念として、比較対象出来る何物をも持ち合わせない事になる。すなわち、この宇宙が始まった時点の真っ直中に未だに取り囲まれている我々にとって、150億年の時間の経過が、内部の変容(時空間の変容も含めて)という現象をもたらしたにしても、それが一個の宇宙という総体として、大きいとか小さかったとかという概念は、成立しないことになる。この宇宙は、始まりの時点から時空の総合体としては、何も変わっていないのだ。すなわち、我々も含めた宇宙の総てが、今も点の中で蠢いているわけだ。下の図を見てもらうと、宇宙開闢以来、大きくなっているように見えるのだが、それは宇宙を外的に(相対的に)見ているからで、中に有るモノに取っては、時間や空間という基本的な尺度が絶対的である以上、しかもその絶対的尺度が変化するとすれば、大きさの概念自体がアヤフヤなものになってしまうのだ。ただ総てがゴチャゴチャに混在したビッグバンの状況から、ほんの少しの時空のゆらぎ等で、密度の濃い部分と薄い部分が生まれ、その異差が時間密度の差を助長して、急激に密度差が出来てしまう。早い時期に今の宇宙の原型が出来上がっていたという事は考えられる。実際にそうらしいのだが。space history


固有の時間軸
上記で、個別な存在がそれぞれ別個の時空軸を持っているのではないかということを探ってきた。ここでは、その個別な物や空間にある個別な時空軸ついて探ることにしよう。
時間は、個別な物や空間の変化・変容に介在する四次元領域であると考える事が出来る。もし物や空間が全く変化・変容しないとすれば、そこには時間という概念は存在しないことになるのではないか。と言うより、全く変容しない固有の物に対して、時間という概念は意味をなさない気がする。100億年前も、今も、100億年後も、全く何の変化も変容も無いとすれば、時間が介在する意味が無いわけだ。
宇宙という固有の存在は、150億年という長い時間をかけて内部変容してきた。超高密度・超高温空間から低密度・低温空間へと内部変容してきたのだ。その変容の課程には固有の時間が介在する事になる。ビックバンの数秒後、数分後には、今の宇宙の原型が既に形成されていたらしいのだが、その超高密度空間での秒という時間単位は、現在のような希薄な空間の中では、とてつもなく長い時間に相当するのではないかと思っている。数十億年、数百億年に値する時間間隔になるのかも知れない。空間密度が高くなると時間密度も比例して高くなる。すなわち1秒という尺度が空間の密度や質によって変化するわけだ。超高密度で超高温だった宇宙誕生の瞬間から、極めて短い時間に光子や陽子や電子が形成され、今のような宇宙の基本形が形成されたというのは、我々がいる希薄な空間での見せかけの時間じゃないかと考えているいる。
時間は空間の有りように付随していると考えることが出来る。すなわち空間や物の有りようで変化するのだ。
時間が止まる
前記で述べた空間の位置ベクトルは考慮しないとして、もし固有の存在として永遠に変化も変容もしない物を見つけ出すことが出来れば、時間の介在を無視できるのではないか?。永遠に静止した時間とは、「時間=間時」で述べている「今という瞬間」が凍結され、その瞬間が永遠に続く。もしそんな物があれば、時空帯のプラス・マイナスの時間経過には関係なく、とにかく常に今という瞬間の中に介在し続けられる物が在るということになる。映画「2001年宇宙の旅」の中に出てくる「モノリス」のような存在かも知れないけど、そんな特殊な物(基点になる物)を見付け出すことが出来れば、時間なんて簡単に片付いちゃう気がするのだ。そんな物がこの世に在るのか?。

陽子や電子、素粒子の時間
物体を構成している基本単位として原子がある。その原子を分解してみると、中心に原子核があり、その周りを電子が回っている。後楽園球場が上下2つに合わさったものが一個の原子とすると、フィールドの中心にビー玉大の原子核(原子全体の大きさの10万分の1)があって球場の周囲を雲の水滴ような電子(マイナスの電荷を持った)が浮遊して取り囲んでいるといった構造らしい。中心にある原子核の中には、プラスの電荷を持った陽子と電荷を持たない中性子が詰まっている。物の重さは原子の中心にある小さな原子核の重さ(陽子と中性子の重さ)が決定しているらしいのだが、結局のところ陽子と中性子が何個あるかで、物の重さ(1個の陽子は約 1.67×10の-24乗グラム、中性子は約 1.66×10の-24乗グラム、電子は素粒子の一種で、重さは9.11*10の-27グラムだ。後楽園球場のフィールドの真ん中にある小さなビー玉の中に入っている(陽子や中性子)が、球場全体の重さを決定しているという事は、陽子や中性子自体の質量ときたら想像を絶する重さ(密度)なのだ。陽子だけを1mmキューブの箱の中に押し込めた時の重さを計算してみた。iron volume1cm volumeなんと10兆トンになる。
右の写真を見ていただくと、その重さを理解して頂けると思う。手の指の上の 1mmキューブの陽子の固まりが、右の写真の大きさの鉄の無垢キューブよりもはるかに重いのだ。
宇宙には、かなりの数の中性子星やブラックホールがあることは周知だと思うのだが、その中心には陽子や中性子だけがギューッと詰まった超重い星や、それ以上の重力で自分自身を支えられなくなった星があるらしい。もちろんそこでは時間や空間も超圧縮されていて、通常の(我々の感覚での)時間間隔じゃないはずだ。光も抜け出せない程詰まっているのだ。上記の1mm角の重さの計算からすると、一個の中性子星がどんなに重いのかが想像出来る。
さて、
話を陽子や電子に戻して、問題はそれらに介在する時間空間とはどんなものなのかを、素人なりに想像してみる。
電子はマイナスの電荷を持っていて、レプトン(軽粒子)と呼ばれるニュートリノ等の一種で、基本的に変化変容(崩壊等)しないらしい。安定状態の陽子は、最近の観測データを基に推測すると、10の33乗年以上かかって崩壊するだろうという話になっているらしいのだが、未だに陽子の自然崩壊は観測されていないとか。陽子は2種類3個のクォーク(アップクォーク2個とダウンクォーク1個)から出来ていて、1/2のスピン(2回転して元と同じ様に見える)を持っているらしい。ーーー現在の物理学は、それら素粒子(様々なクォーク・様々なニュートリノ・電子・光子・重量子・グルーオン粒子・ウィークボソン・重力子・等々)の成り立ちや特徴を探求する所まで行っているようだ。それぞれの特徴や機能は何となく解るのだが、それら様々な素粒子や粒子が単体として機能するのはビッグバン当初しかないんじゃないか?と思われるのだ。大統一理論というのがあって、自然界に働く力は、重力、電磁気力、強い力(原子核の中の陽子や中性子を結び付けている力)、弱い力(粒子の種類を変えることの出来る力・粒子の崩壊の原因となる力)、これら4っつの力を統合する理論らしい。超対称性理論に於いては、高エネルギー状態の基では4つの力が大統一されることを予測する理論らしい。
4つの力の中で、重力を司るヒッグス粒子と呼ばれるものがあるらしい。未だ発見はされていないのだが、面白い粒子理論なので書いておこう。ビッグバン直後の超高エネルギー原始宇宙の中では、クォークやレプトンは、質量を持っていなかった。質量の無い物は真空の中を光速で飛び回る事が出来るから、総ての素粒子は光速で飛び回っていたらしい。しかし10 の -13 乗秒(1/10 の13乗秒)過ぎた頃に、真空の相転移が起こり、それはあたかも水蒸気が冷えて水になる様に、真空の世界が一瞬にしてヒッグス粒子で満たされた世界に変わってしまった。その結果として、ヒッグス粒子に反応するのも(クォークやレプトン)は、ヒッグス粒子の抵抗を受けて、高速で飛び回ることが出来なくなった。すなわちヒッグス粒子に反応する物は、あたかも質量が有る様に振る舞う。という理論なのだ。今でも宇宙はヒッグス粒子で満たされていることになるわけだが、それは未だ見付かっていない。近く新たな実験装置が出来ると、見付かる可能性が高いらしい。
とにかく色々な専門的情報を探って行けば行く程、素粒子に関する書き物を読めば読む程、難解な情報に捕われてしまって時間というテーマから外れて来る様な気がする。
それよりむしろ、量子力学的見地から時間を検討してみる方が面白いのではないかと思っている。「不確定性理論に於ける時間の振る舞いに付いて」な〜んて、訳の分かんないことを頭の中で空想してみる方が、よりアート的じゃないかと思うのだ。物質の細部に入り込むと、「シュレーディンガーの猫」の様に非常に不確定な現象を基軸にしなければならない所辺りから、時間の質が関与するだろう事に、目を向けてみる。かと言って、私自身本当は何も解っちゃいないのだが、取り敢えず、時間が質を変え始めるだろうという仮説を基に、電子・陽子・中性子・一部の素粒子を含めて、それらの持っている時間軸を想像しながら探って行く事にする。そこから先の理論や方程式計算等・細部の専門的な事は、実は全く訳きゃ解らんのだ。ーーー

不確定な時間の装い
電子やクォーク等の素粒子の世界では、時間はデジタルな装いをするのではないかと思っている。
原子核の回りを回る電子は、内側から決められた軌道を持っていて、それらの軌道上をポンポンと飛び越えて回っているらしい。内側の軌道に在った電子が、ポンと消滅したと同時に外側の軌道にポンと現れる。どの軌道に電子が有るかということを的確に予測出来ないらしいのだが、何回か実験するうちに確率として、ある状況では内側が多いとか、外側何本めが多いとか、というデータは出る。その確率はプランク定数(光の持つエネルギーは振動数に比例し、その時の比例定数がプランク定数(6.626068×1/10の34乗))に収束して来るらしいのだが、このことは電子が波の性質をもった粒子であるということらしい。波であり粒子であるという相容れない現象を考えて行くときに、ふと思うのが時間の質の変容である。もし時間が通常世界での流れる様な時間じゃなくて、デジタル的なオン・オフの装いをしたとしたら、電子の持つ特徴がよりよく説明されるのではないか。電子の持つ振動は時間の振動(オン・オフの振動)じゃないか・・・? そして、素粒子や電子の不確定な動きは時間の有り様から来ているんじゃないか? 電子は基本的に崩壊しない。代わりに光子(光)に姿を変えるし、「弱い力」が働く所では、電子が空間に突如として姿を現す事もある。ここでも電子に介在する時間は、継続して流れるアナログ時間じゃなくて、オンかオフというデジタルな時間の装いになる。
それじゃ陽子はどうかというと、陽子は崩壊に途轍もない時間が用意されているらしい。内部構造としてクォークを持っているのだが、陽子として安定した3つのクォークは、通常の空間では(高温な恒星の内部も含めて)10の33乗年以上も分裂しない。これは、宇宙の始まりビッグバンから今まで 1.5×10の10乗年だから、宇宙初期の超高密度時間を計算に入れても、未だ当分は変化も変容も崩壊もしないということになる。陽子に介在する時間もオンのまま凍結されて静止した時間だということが出来ないか?
中性子は原子核内から抜け出すと、通常900秒程で陽子と電子と反電子ニュートリノに崩壊するらしい。内部にあるクォークの一つが変異して陽子となり、その時に電子を放出する。単独で不安定な中性子は、エントロピーを増大させる方向で、安定な陽子と電子になるわけだ。しかしここでも時間はデジタルなのだ。クォークの一つがオフになると、もう一つの今まで内部には無かったクォークがオンになる。結果として陽子と電子という新たな時間系がオンになるのだ。
結論として、原子構造の世界や素粒子の世界に入り込むと、時間は帯の様な流れが凍結され、それぞれの物(現象)がオンかオフかというデジタルな羅列の世界に入り込むと考えられる。そして個々の粒子が持っているデジタル時間は統合され、より大きな次元になるに従って流れという装いを呈して来る。すなわち、マクロの世界では、統合された時間が、過去から未来へと止めどなく流れる絶対的アナログ時間の装いになって来るのだ。個々の現象や地点にズームインすると、絶対時間は崩れ相対時間になってくる。固有で壮大な時間が流れているはずなのだが、宇宙創生期に宇宙が一個の点として振る舞おうとした時期には、その点(宇宙)に関与する時間も相対化したデジタルなのだ。

締め
人間の意識は思念・観念として、物の大きさの概念をも難なく飛び越して、細密な世界に入り込むことが出来るし、宇宙をも点として認識することが出来る。時間の装いをデジタルにもアナログにも感じ取ることが出来るのだ。自分自身の肉体もミクロ界では、電子や陽子や中性子で出来ていて、それらにはデジタルな時間が介在している可能性があるのだが、ただ私の感性が、分子構造という高次元でアナログなプロセスを経ないと、自らの意識界に辿り着かないために、デジタルな時間をリアルな感じとして感じ取れないのだ。宇宙全体を統合している時間帯を、宇宙という井の中(点の中)に居るために、客観的に外部から感じ取る事は不可能なのだ。
何所までも行き着くことの出来る自分の観念の中で、素粒子の世界に入り込み、そしてこの宇宙から抜け出して、そこにあるはずの生の時間を感じ、それを自分にフィードバックすることは可能な気がする。「今という瞬間」の中で、過去から未来まで突き抜けているモノリスの片鱗に触れることは可能な気がするのだ。

結論として、今流れている時間の「今という瞬間」を、具体的な方法で具現化する事は出来なかった。残念!! ただ、時間には多様性があって、私が持っている時間、感じている時間と、これを読んでいるあなたが持って感じている時間とは、基本的に違う時間であるということは解った。
後は、我々のイリュージョンの範疇にある。


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