自民党の総裁選と小泉首相の靖国参拝の継続で、日本のアジア外交の方向性と戦後処理の問題が再燃している。日本としての方向性について、現政府の思考、次期首相有力候補の見解は言うに及ばず、各マスメディアの取り扱いも含めて、それらを冷静に見聞していると、どうやら日本としてのナショナリズムの高揚を、一方向に示唆する指向が余りにも濃いように感じている。確かに感情的な脈絡で諸外国と対峙し、内部的に正当性を主張することは、非常に安易にナショナリズムを高揚させる常套手段である。果たして、ここに来て若者の感情上で、この安易なナショナリズムが蔓延り始めた感があるのは否めないようなのだ。世界の歴史を冷静に見てみると、この安易な方向でのナショナリズムの高揚が、それぞれの国での国際感情の亀裂を深め、ひいては国際紛争・戦争に発展していく事例は枚挙に暇がないほどである。このところの日本を見てみると、歴史(かつての戦争)に何を学んだんだ?と思ってしまうのは、私だけだろうか。言葉だけの国際平和、言葉だけの戦争放棄、裏を返せば自国だけが正しいという国民感情が日本国じゅうに蔓延り始めているのは否めない。相手国民が日本に対して未だにネガティブな感情を抱いているから、相手国政府が国民感情を未だにネガティブにコントロールしているから、日本は日本で自分たちの好きにやる、それの何処が悪い!と、短絡的・感情的に言い張ることが、果たして戦争放棄した国の進む方向なんだろうか?戦争放棄した日本国民として勇気を持って、相手の国民感情まで解かすほどの大いなる愛を持つこと。こんな私の思考は、理想論かも知れないが、考えてみれば今の世界の中で、永遠なる戦争放棄を謳っている国も理想論から出発しているはずである。どうせ理想論なら、徹底的に理想論になってこそ、その意義がある気がするのだが。言葉だけの戦争放棄では近隣諸国は付いて来ないはずなのだ。この局面で、安易に自己肯定する方向に流れるのではなく、今こそ世界の中での日本の地位と立場を、勇気を持って熟考する必要があるように思うのだが。それが戦死者への唯一の供養だと信じている。関連記事-1(小泉とネオナチ)関連記事-2(靖国)
世の中、アートが花盛りで誰でもアート、猫も杓子も何かを創ればアート、音楽を奏でればアーチストと言うことになる。嘗てアートは芸術家の特権だった様だが、今は世の中誰でも芸術家・アーチストである。小学生や中高校生、主婦の手芸、老後の趣味に至るまで、モノを創ればアートという言葉が当てはまるのだ。でもそれは間違いじゃない。アートとは人間がモノを創ること。創られたモノは全てアーティフィシャルなモノなのだ。最近私はアートに興味が無くなってきた。アートという言葉が意味するモノに興味が無くなってきたのだ。その一方で、ドイツ語で言うクンストが重要なんじゃないかと、ひしと感じている。(ドイツ語の中にはアートという言葉もあるのだが、アートとクンストとは違うモノなのだ)クンストとは哲学上の思考を含んだ言葉で、日本語に直訳すると美術もしくは芸術になるんだろうか?適切な言葉が無いような気もするのだが、その意味する所にあるメタフィジカル上の思考領域が非常に気に入っている。これは小中学生は創ることが出来ないし、主婦の手芸とも違うし、楽しいから創るとか、な〜んとなく創ってみちゃったというのも違う。フィジカル上にある喜怒哀楽の感情から出てきたモノとも違うんじゃないかと思っている。況わんやクンストの次元に達することは、そうそう容易い事じゃない。モノを創るという背後に、深い洞察と思考と理念が必要なのだ。もちろん形や行為を物や空間に置き換える時点での、個としての感性も重要なのだが、それに加えて、自らの人生を掛ける思いが必要になってくる。一時の思いつきや、華やかさや、社会性や、悲壮感や、体験観等とは次元の違うことなのだ。もちろんそれら総てを含有して、もしくはその多くを含んでも尚素晴らしいモノはある。しかしアートと呼ばれるモノ総てがクンストをクリアしている訳ではない。むしろ、現代の中でアートとしてもてはやされるモノの多くは、その対極にある事の方が多いのかも知れない。現代に於ける経済ヒエラルキーの中では、クンストよりもアートの方が上位に位置しているけどねえ・・・。
このところブログ系サイトが人気らしいけど、そこそこ怖いんじゃないかと思っている。自分のページをタダで持てるし、写真もアップできるし、日記も書けるし、同類とのコミュニケーションも図れるし、願ったり叶ったりなんだけど。でも全体の構図を深く考えてみると、それなりの思惑というか手段というか利害というか・・・、端的な一例として、個人情報の密かな流出等々も見えてくるし・・・・。全てを黙認して、填ってる人達には何も言うつもりはないけど、世の中タダは怖いということだけは確かじゃないかなあ。
最近の現象として、石に触れたい、石を彫りたいという学生が増えつつあるんじゃないかと感じている。今の社会・アートシーンの中で、最もロウテクと思えるジャンルである。尚かつ、素材として一番硬くて重くて寡黙で扱いづらい物体を選ぶことになる。世の中の在り方が、バーチャルな方向に加速度を増している状況下で、どうしようもなく頑固で寡黙で宇宙的な存在を手にしてみたいという若者が、僅かながら増加傾向にあるのだ。環境に適応し過ぎた種族は、絶滅するという法則を、聞いた事がある。なるほどねえ・・・。今の若者の心の空洞を埋めるモノは、よりハイテクな現象や行為や情報じゃなくて、一番ロウテクな事・・・。地球のかけらを手にし、星のかけらに挑む事かも知れない。今後も、石に興味を持つ若者が増え続けるとすれば、人の未来にとって、まんざらじゃない気がしている。人類史上最古の素材は、未来を見つめる上での、手掛かりになるかも知れない。
このところ、小泉首相の靖国公式参拝問題で、アジア諸国との関係がギクシャクし始めている。小泉首相をはじめとする日本政府の理論と、中国をはじめとするアジア諸国の見方・受け取り方が180°違うのだ。小泉氏は、不戦の誓いのために、戦争で亡くなった多くの人達と、戦争を指揮した人達も含めて共に祀られている神社に参拝する事の、何処が悪いという理論。如何なる理由があるにせよ侵略戦争を指揮し養護した人々の英霊も祀られている神社に、一国の首相の立場で参拝する事自体、許せない行為だと感じているアジア諸国の受け取り方。一方の論理と、その論理で導き出された行為への批判(リアクション)である。人間一個人だって、昔の精神的傷が癒えるのに一生掛かるかも知れないのに、国家間の精神的傷が早々簡単に癒えるとは思えないのだが、このまま行けば、両者の溝は益々深くなるばかりである。昨今の国際紛争や内乱・戦争の当事者相互の論理を探ってみると、そのほとんどが過去に根ざした傷と怨念である。そしてお互いに、自分たちこそは正しいと主張している事だ。一方的に自分たちは正しいのだから、当然相手は間違っているという短絡的理論が正当化されるのだ。それがエスカレートして行くと、一国のメンツとして後に引けなくなる訳だ。結果的に全ての事が噛み合わなくなって、啀み合い対立し、戦争へというシナリオにるのである。些細な啀み合いが事が大事に至るのだ。況わんや、最近のテレビ報道、テレビ討論を聞いていると、靖国参拝は正しい事だと短絡的に主張する輩が多く出て来る。もちろんアジア諸国内の国民教育の問題はあるにしても、嘗て日本が兵を繰り出し、多くの市民を巻き添えにした事は間違いない事なんだ。昔このコーナー上で「小泉とネオナチ」にも書いた事だけど、ドイツと日本の事情は微妙に違う事は分かるけど、一国の長がヒットラーやナチの祀られている(もしあるとして)場所に公式参拝したら、他国がどう反応するか? 火を見るよりも明らかだよね。逆の立場に立って靖国問題を見ると、中国や韓国の反応は当然の事だと思わない? 小泉さんが言ってる内政干渉が通じると思う?一国の長たる者、そのパフォーマンスとして、アジア諸国との協調と日本の未来のために、たとえ国民の大多数が参拝せよと言うにしても、ひいては過去の戦争で命を落とした英霊のためにも、敢えて靖国神社には参拝しないというのが、政治を司る者の真の勇気だと思うのだが。一国の首相が、国の立場を危うくして靖国神社に参拝する事で、靖国に在るとされる御霊が、救われるとでも思っているんだろうか?東京裁判で戦争犯罪人となった人の御霊が喜ぶとでも思って居るんだろうか? 逆なんだよ! 世界平和のために、怨念に起因した対立や戦争を回避するためにも、参拝を断念する。それでこそ祀られている英霊は真に救われるのだ。このままエスカレートして行けば、戦争で亡くなった多くの人達は犬死にじゃないかよ。最初に行くと決めたから行くんだい! 今止めると外国の言いなりになったみたい、なんて、バカな駄々っ子はここら辺で終わり。真の勇気を出せよ!小泉さんよ。あんた日本とアジアの将来を担っている国家の長だぞ。
昨今、国歌「君が代」斉唱問題で、東京都も含めた自治体の教育委員会の方針と実務教員との考え方の違いが、頻繁に報道され取り沙汰されている。私は素直に言って、「君が代」の曲は好きである。この曲が国歌である事に不満は無いし、国歌として、他に比類無く荘厳で時空観のある曲だと思っている。かれこれ十数年前だと思うのだが、広島でアジア競技大会が開催された。いわゆるアジアのオリンピック大会だ。この大会の金銀銅メダルを私がデザインしたのだが、そんな事で、大会の開会式に招待されて、スタジアムの一観衆になった事がある。天皇陛下の御臨席の元、メーンイベントの国歌斉唱と国旗掲揚になる。スタジアム全員が起立して、天皇陛下を見上げて、「君が代」を歌うのだ。この時私は、今まで感じた事の無い一種異様さを察した記憶がある。「君が代は、千代に八千代に細石の巌となりて、苔のむすまで」という国歌の歌詞を、天皇陛下いわゆる歌詞の中の「君」を仰ぎながら斉唱する事の異様さを感じたのだ。これって?北朝鮮の国民が、金正日氏を讃えて「我が君主様は永遠成れ」と歌う事と一緒じゃない・・?先にも書いたのだが、「君が代」の曲は好きだ。でもハッキリ言って、この歌詞は民主主義を尊重する国の歌じゃない。「君主様の世は永遠なれ」と歌う北朝鮮と日本と、歌詞の謳っている事は全く一緒なのだ。ニュース報道等で、北朝鮮国民の君主様への歯の浮く様な賛辞や斉唱を耳にして、何時も鳥肌の立つ思いがするのだが、日本国国歌と北朝鮮のそれと一体何処が違うの? 全く同じ事を我々も国歌として斉唱しているんだよね。ましてや、その国歌の斉唱を政治的に強制するというのは、北朝鮮の国民洗脳政策と、いったい何処が違うの?「人のふり見て我がふり直せ」と言う諺がある。近隣諸外国に対して、正々堂々と渡り合おうとするのなら、我々の内部も是正していかないと本物の発言力を持たないわな。このコーナーに「小泉とネオナチ」というタイトルで嘗て書いたけど、小泉さんの靖国参拝問題も一緒。片方の耳を塞いで短絡的な言い逃れに終始している。ひいては、このところ立て続けに起こっている中国や韓国の反日暴動に対しても、歯に物が挟まったような煮え切らない言い方でしか弁明できないんだよ。君が代の曲は悪くないから、ほんのチョット歌詞を変えればいいんじゃないかなと思っている。「日本の未来は〜〜〜」とかさ、「我々の國は〜〜〜」とかさ、「日本国は〜〜〜」とか。恐れ多い事ながら、天皇陛下も同じように思ってんじゃないかなあ。ただ自分からは言い出せないんだよね。きっと
2004年12月、テレビから情報を得る事に疑念を持ちながら、つい情報として咀嚼しまう今日この頃なのだが、公共放送で放映されていた某美術館の展覧会情報を見た。21世紀初頭の美術の一方向性を示唆している展覧会であると理解した。しかし美術館空間全体を使ってのインスタレーション作品やディズニーランド型の体験型作品の多くに、少なからず失望させられてしまったのだ。それなりの作家のコンセプトをベースに組み上げられているのは理解できるのだが、押し並べて一つのイメージ空間を演出する手段として、小道具としてモノ作りが在る、その事にたまらなく疑念を感じてしまった。作品という舞台の中に鑑賞者が入り込んで、演出された空間美術を鑑賞し体験する。その何所がいけないの?と疑問を持たれる方も多いと思うのだが、演出されたモノ(空間)は、所詮絵空事なのだ。鑑賞者に疑似体験を与えるということ自体が、ウソ事の始まりになるのではないか?。鑑賞者(市民)は日々何も感じない人達の集合体だから、ご丁寧に疑似体験の場を演出して、美術という難解そうに見える概念をオブラートに包んで飲み込み易くしてやらないと、何も感じないんじゃないかという思考自体が、美術の破綻を意味しているのではないか?立体表現をする者は、立体すなわち物の存在からは抜けられない。物を作り使って、物に語らせる行為の中で、物の本質としてのウソを作り上げてはならないと常々思っている。そこに於いて、物をしての演出行為が、ウソ事を介在させる事にならないか?、作家の脳裏にあるスクリーンイメージ(絵空事)の押し売りにならないか?。映画のセットや舞台の装置は、スクリーンやステージを通した、共通認識上の架空のストーリー中で成立する。美術館という現実に付随した空間の中で、物の本質以外の部分で仮想体験なんてしたいとは思わないし、そこで仮想体験する事が、美術に触れ鑑賞し感じる事だとは思わない。美術館での架空イメージの演出が、ある意味で愚劣な行為に成り下がる可能性がある様に思う。ディズニーランドの疑似演出空間と、美術館のそれとを比較してみて、私はディズニーランドの方が潔い気がしてならない。何故なら、我々は最初から作り話の中に居る事を理解し認識しているからだ。
2004年11月8日、長年続いている、某野外美術展を初めて見に行った。招待作家が十数名、一般参加も併せた出展数はかなりの数にのぼる大きな野外展だ。山あり谷あり藪ありの地形の中を、地図を頼りに作品を探して歩くのだ。思わぬ所での薮漕ぎや山歩きは実に楽しかった。ロケーションはさておいて、展覧会自体の印象として、美味しいラーメンを食いに老舗に出向いたら、即席のカップラーメンを食わされた思いがした。中に1〜2点、本出汁の効いた生麺が味を際立たせていたのが、唯一の救い。若い美術家が出展の中心らしいのだが、自分の作り出す作品やインスタレーション等に費やすエネルギーの欠落、もしくは、余りにも安易な方位での思考と制作が目立った。一般参加の人達に関しては、質の善し悪しを問うても仕方ないと思うのだが、展覧会全体としての制作アドバイスの必要性を感じた。長年継続する事の価値は、一回一回の展覧会の質の向上に在る。それが一般市民を動かす原動力になると信じている。
2004年8月27日、暑かった夏が終わろうとしている。それと歩調を合わせる様に、音戸の展覧会も終わりを告げようとしている。音戸の展覧会も会期中、色々なメディアに取り上げられたようだ。音戸町にとっては悪くない事なのだが,若い作家達にとって、はたしてそれが良かったのか悪かったのか?難しいところである。作家のモチベーションが,何所にあるのかが問題なのだが、押し並べて言える事は、それぞれのアーチストの課題として、自己の実力を向上させ、同時に作品の質を高めるという基本的な部分での課題が残ったようだ。何れにしても、今回を一つのステップとして、作家としての質を高める事が重要な気がしてならない。来年には、音戸町は呉市と合併する。2年前に倉橋町から始まったこの展覧会も、次回を持てるのかどうかが危ぶまれるのだが、そこは企画運営に携わってきた広島市立大学の勇士諸氏に匙を預けて、次回のゲニウスロキ展に期待したい。
2004年7月31日、「音戸アートスケープ、ゲニウス・ロキ2004」展が、台風10号の襲来とともに開幕した。展覧会の詳しい内容は、リンクページから展覧会の公式HPにリンクして御覧下さい。「アートスケープ」とは、アートのある風景だよね。この意味は直ぐに分かるのだが、「ゲニウス・ロキ」とは・・・? と思われる方達も多くいらっしゃるんじゃないかと思うので、展覧会のチラシ等に書いてある一文を紹介しよう。「ゲニウス・ロキ Genius Loci」とは、ラテン語で地霊や土地神を意味し、現在では主に、場所のコンテクスト(歴史・風土・ライフスタイルなど)を読み取り、それを建造物の設計や都市計画に反映させるという建築用語で用いられています。ただし、「地政学」などが類似した傾向の土地を分類して把握する方法を採るのとは異なり、「ゲニウス・ロキ」はあくまで固有性(とりかえのできない“ここ”・とりかえしのつかない“いま”)に関与するものです。上記は、かなり分かり易い解説なので,敢えて補足する必要もないのだが、私なりの所見で言えば、それぞれの地域独特の個性、すなわち、地域の風土・住人の生き方や考え方・根付いている文化・流れている時間等々、総てを引っ括めた空間の特性じゃないかと思っている。
(写真は、音戸アートスケープ・ゲニウスロキ展の作品設置状況。河野商店の奥の間,座敷空間である。展覧会が始まる1週間前に家主であるお母さんが亡くなった。そのお母さんの御遺志があって、河野商店を展覧会の空間として使わせていただいている。奥の仏間には、お母さんの遺影と遺骨が期間中も安置され、仏壇には常時灯が灯っている。現在は息子さんがお住まい。)
日本の街並、いや世界各地の街並には、それ、ぞれの特徴・特異性がある。人々が住み着いて長年生活している場所には、必ずその地域特有のゲニウス・ロキが存在すると言えるのだ。さて、話を本題に移すとしよう。問題は、そんな個性的空間にアーチストが侵入し、自らの作品を展開する意味と意識、すなわちアーチストの制作理念なのだ。展覧会の最重要課題は、彫刻やインスタレーションや絵画等のビジュアルアートをして、特定空間に侵入する作家自身の理念と、侵入し展開したモノが状況の中で如何なる言葉を持ちうるかという作品の質の問題なのである。過疎化が進行中の中小都市で,人集めの催事イベントとして同様の展覧会が開催される事が多い昨今、ここに至って、参加作家(アーチスト自身)の空間認識と作品理念(意識)と、モノの質が問われているのだ。もっと分かり易く,それぞれの事柄に付いて書き進めて行く事にする。アートの種類近年のアート作品には何種類かあって、種類によっては、巨大な仕掛けが必要だったり、小さなモニターと再生機だけで事足りるモノもある。その主なモノとして、周りの空間に働きかける種類や空間状況を必要とする種類、すなわち空間に対して開かれた種類の作品と、空間自体を新たに設営する事で成立する体験型のものと、空間を必要としない種類、空間に対して閉じた作品とがある。前者は彫刻やインスタレーションを代表とする立体アートや絵画等の平面アート、体験型は、空間そのものを作るディズニーランド形式、後者はメディアアートやビデオアート等のスクリーンの中で完結するものである。後者の閉鎖型は、建物の壁や風景の中に投影する映像等の例外はあるのだが、空間を必要としない。脳が描き出すイリュージョンの中で完結できるのである。ポケットにある携帯電話の中の映像で完結する事さえも可能なのだ。昨今の国際展の主流が、閉ざされたアート群になっているのも、空間というややこしいものを必要としない,ある種の利便性に他ならない。片や、空間を必要とする開かれたアートの展覧会や、体験型は,音楽で言うところのライブなのだ。空間の広がりや、そこに居る人々や、流れている時間、漂っている空気までが影響して来る。開かれたアート群や体験型が、物や色や広がりを媒体としている以上、作家が好むと好まざるとに関わらず、空間の成り立ち全てと関係を持つのである。それらとの関係性の中で、アートが事物として自立する事により、作家の思考や観念を超えた相乗作用が生まれるのだ。リアリティーは幻想より奇なりなのである。空間認識についてここで問題視するのは、上記の「空間に対して、開かれたアート群」の話である。アーチストが自らの作品を展覧する空間として、大きく分けて、美術館やギャラリー等の、あらかじめ美術展示を想定した空間、すなわち個性を持たない無機的な空間と、一般空間すなわち市民が生活している日常空間という、二種類がある。美術館等の展示のために設営された空間には、ゲニウスロキの様な特異性や個性は無い。言わばアーチストが何を展覧しても、それなりに空間自体が変容し追従してくれのだ。それに比べて一般空間は、その成り立ちに多様な指向性や個性があって、空間が作品に追従する事はない。展覧するモノの質や制作理念が脆弱だったりすると、展覧物はゴミ同然になってしまうのだ。さて、一般空間の強さや指向性は、何に起因しているのか? もちろん、そこに居る人も含めての、複雑な構造物や構成に寄る所が大なのだが、それらを総合して忘れてはならないのが時間軸の深さと広がりが在る事である。過去から延々累々と続いている時間の広がり、すなわち深遠な時空間の広がりが存在するのだ。片や展示専用空間にはそれが無い。時間軸の広がりが無いのである。(新しい建造物にも縦の時間軸の広がりは無い。)開かれたアートは、空間状況が介在するという事は先に述べたのだが、重要なのは、そこに時間空間も介在している事である。作品理念とビジュアルアートの可能性について時間も介在した空間の中で、作品を自立させる事は簡単じゃない。しかし、時空間と共存しながら壮大な相乗効果を生み出す作品が既に存在した。逆にその相乗作用こそが、「開いたアート群」にしか許されない社会性でありエネルギーだと思うのだが、果たして、そこに行き着くのには作家として、作品として何が必要なんだろうか・・・・。それが最初から分かってれば苦労はしないのだが、とりあえず私の独断と偏見で推論する事にする。 その前に作家(アーチスト)としての、初期設定事項から話を進めよう。先ず第一、色々な事象に対して敏感な感受性を持つ事が肝要になる。第二に、作家として人生を掛ける必要性を感じる。(命を掛けると死ぬ羽目になるから、命まではと思うのだが、嘗て命を掛けた作家達も居るのだ。)それはモノ作りのモチベーションの問題で、有名になりたいからとか、とりあえず数打てば当たるし駄目なら他の事をやるなんて思ってる輩は芸能人を目指せばいいのだ。それら初期設定をクリアした人が作家になれる権利と、本物を作れる可能性を得ると思うのだが、作家として成立する事が,十分条件じゃない。さて,話を本題に戻すとしよう。先ず思う事は,彫刻とは何か?芸術(アート)とは何かという事である。空間に迎合する事でもないし、拒否する事でもない。自らの表現目的を解説する事ではないし、自らのコンセプトやストーリーを分かり易く見せる事でもない。簡単に言えば、フィジカルな事柄や物や空間を、メタフィジカルな領域に引き上げる事。その行為が、作品を作るという行為であると思っている。堀内正和さんの言葉で言うと、物や空間の領域(形而下領域)を「形而中領域」に昇華させる事なのである。逆に、形而中領域に達していないモノは、浸入した空間の中で作品として自立できないのである。ここで区別されるべきは、先の「アートの種類」で述べた、体験型の作品である。それらの多くは、体験や経験というフィジカルな形而下領域で完結する物がほとんどで、非日常空間の体験の中で新たな言葉を発する事は、ある種の洗脳に近い。宗教上の儀式や洗礼に近いのだ。だから特殊空間の設営自体が借り物のディズニーランド形式になってしまうし、芸術として昇華しきれないのだ。鑑賞者の次元で、優れた芸術と、それが成立する空間に触れた時の感動は、その中にあるストーリー性でもないし、体験内容でもないし、作家のコンセプトでもない。物や空気に触れた時に感じる、鑑賞者の観念と感性の振動なのだ。もちろん作者と鑑賞者は別人だから、同次元で共鳴する事は不可能に近い。鑑賞者は鑑賞者の次元で独自に振動するのだ。作品を設営する空間が、個性を持てば持つほど、空間に情念を感じれば感じるほど、そこで自立する事柄から受ける感動の振幅は大きくなる。逆に美術館等の無機的空間内で、それとなく成立してる様に見えるモノが、一般空間の中ではゴミになってしまう可能性がある。作家の行為やコンセプトやストーリーや演出が先行するモノは、独立した作品として成り立っていない。その背後にあるストーリー等の説明書きが必要なのだ。すなわちモノとして独立したメタフィジカル領域(形而上領域)を持っていないのだ。少し蛇足になるのだが、一般空間での作品設営の時に、周りの空間の状況や有り様を、展示作品のために変容させる事(作品のために必要じゃない物を奇麗に片付けるとか、色を塗ってしまうとか、長年生きて来た木を切ってしまうとか)は、決していい事だとは思わない。過去から延々と続いて来た時間空間を断ち切る事になってしまうし、変質させる事になってしまうからなのだ。そんな事よりむしろ、ゲニウスロキの空間の中で、自立できる物、対峙できる空間の広がりを持ったモノを、作る事の方が重要なのだ。21世紀、今ここに来て、芸術(アート)には無限大の可能性とエネルギーが潜んでいる事を感じている。薄暗く狭い空間の中で、小さなスクリーンに満足する事よりも、ライブとして広大な空間に出て行く事の方が、何万倍も面白いと思うのだが・・・・・。現実的に、小さな作品が都市全体と対峙する可能性だってあるのだから。そんな、たわいもない事を事を考えながら日々作品に取り組んでいる。生きて行く上で、芸術や彫刻が必要か不必要かは関係無い。経済的に成立すとかしないとかも関係無い。私自身の信条の問題、アーチストの情念と理念の問題なのだ。
2004年6月18日、いつの間にか、日本の自衛隊が、イラクでの多国籍軍に参戦する事になったようだ。その是非の議論が全くなされないまま、先日の小泉氏とブシュ氏との会談で、「日本の自衛隊も軍隊に参加するよ。日本国憲法がどうであれ、ブッシュちゃんが何をやってても、僕はブッシュちゃんについて行くから、心配しないで! 今までのように仲良くしてね!」こんな会話がなされたようだ。日本に居る我々国民は、全くの事後報告で、狐につままれた気分である。それを正当化するかのごとくの、政府要人の間に合わせ的な弁解が、テレビでも盛んに放映されている。一体これは何なんだ?いつの間に小泉氏が、日本の憲法になったんだ?自衛隊は戦闘地域には踏み入らないとか、戦闘行為はしないとか、後部支援しかしないんだとか、全く日本の中の一部の人にしか通用しない身勝手なお膳立てばかり強調しているが、世界のほとんどは、戦闘行為も辞さない軍隊に参戦するんだ思っているし、現実的にそうなる事は容易に想像できる。現にヨーロッパ諸国(フランス、ドイツ、ロシア、etc)は、自国理論と判断で多国籍軍に参加しないのだ。小泉氏はと言えば、君主ブッシュ氏の前では、批判はおろか、リンゴを磨きながら一生懸命に尻尾を振る・・・・・? 内弁慶の典型かもしれない。極端な言い方をすれば、現在ブッシュ氏がやってる事を正しい事だと思ってる人間は、アメリカ国民の半数弱を除いては、世界の中でほとんど居ないんじゃないかと思っているのだが、しかし自衛隊の多国籍軍参加を、日本国民の半数が支持しているらしいと聞いて、こりゃ総ての事柄に関して、私の認識不足なのかも・・・?それにしても、イラクの安定とテロ撲滅のために、日本がなすべき事を、今こそ再考すべき時だと思うのだが。
2004.4月15日、イラクで人質になっていた日本人3人が解放された。何はともあれ良かった。イラクの人達のために危険を顧みず出かけて行っている人達を、同じ人間として、イラク武装勢力も抹殺する事はできないし虐待もできない。人間誰しも、誠意を持て接すれば誠意を持って返ってくるのだ。私の結論から言おう。最早、イラクに自衛隊が派兵されている今。もし本当にイラク復興のために行く必然性があると言うのなら、派兵されている自衛隊は、全ての武器を放棄すべきだ。イラクの復興のために行くというコンセプトを、純粋に全うすべきなのだ。戦いのために行ったのではないという強固な意志を、身を挺して伝えるべきだと思っている。戦いが戦いを生み、武力制圧が武力反抗を生むという、悪循環を断ち切れるのは、日本の勇気しかないのかも知れない。自衛隊の一員として出向いている隊員の方達にとっては、人柱的行為だとは思う。武装勢力やテロリストに攻撃される危険性が大いにある中で、全ての武器を捨てる事は自殺行為に近いのかも知れない。しかし何れにしても自衛隊からは攻撃できない訳だから、如何なる武器を所持していても同じ事なのだ。武器を持って、野営地の中でビクビクし悶々としているよりも、武器を持たない復興支援を謳って、堂々と支援協力する事の方が、何百倍も安全なのではないか?日本の自衛隊は、全ての武器を放棄して、純粋にイラク復興協力するという事を、イラク国民に対して、ひいては世界に対して示す事。アメリカのように、武力を正当化し、平和のため民主主義のために平気で武力行使する詭弁的行為から一線を画するためには、武器を捨て純粋になるしかないのだ。世界平和のために、日本にできる事、いや日本にしかできない事は、武器を捨てる事しかないのではないか。どんなにやられても、武力では絶対にやり返さないという、勇気を持った国になる事。戦争放棄という世界に冠たる平和憲法を持つ日本の取るべき真の勇気は、自らを呈して、全ての武器を捨てる事しかないような気がする。平和に対して純粋になる事、勇気を持って身を挺する事、それが日本国民に課せられた21世紀の使命だと思うのだが。
2004.春、小泉首相の靖国神正式社参拝に関して、再度、中国が厳しい批判のコメントを出した。それに応えて小泉首相が、靖国神社の参拝はこれからも続けるというコメントを出した。はっきり言って、小泉ちゃんは国家元首としての常識に欠けると思わざるを得ない。彼の個人的な信条や宗教を否定はしないが、それはあくまで小泉純一郎という個人としての事、国を代表する一国の元首が取るべき行為じゃない。ドイツのシュレッダーさんが、ヒットラー(墓は無いかも知れない)やナチ幹部の墓に公式参拝するのと全く同じ行為だ。もしドイツの首相がヒットラーの墓に公式参拝したら、周りの国々はそれこそ黙ってないだろうし、日本も同様の危惧の念を表すのは当然の事。どう頑張っても正当化できない事なのだ。第二次大戦の戦没者追悼という名目だけじゃ事は済まない。そんな分別も付かない短絡的首相は、一国の主としての器と裁量に欠けると思わざるを得ない。彼がアメリカのネオコン連中に追従しているのは分かっているんだが、ひょっとしてネオインペリアリスト(ネオ帝国主義者)かもしれない?
2004.春、東京都写真美術館でやっていた「第7回・文化庁メディア芸術祭」を見に行った。薄暗く狭い会場に、溢れんばかりの人である。やっぱり若者が多い。小さなスクリーン(とは言っても2m大はあるんで、小さいとは言えないかも知れない)や、テーブル形式のインタラクティブ作品に黒山の人だかりで、じっくり落ち着いて見る事も難しいのだが、全体の印象として、この展示会は高校や大学の文化祭、もしくは発明工夫展示会といった観が強い。全ての作品に押し並べて言えるのだが、イメージが貧困で思考が単純で表現が稚拙でイメージのスケールが小さい。これが今を時めくメディアアート? 確かにアーティフィシャルと言えば人工物のことだからアートなのだが、少なくともドイツ語で言うクンストじゃない。美術館を出て、陽光が降り注ぐ青空の下、大勢の人々が其々にワイワイガヤガヤ楽しんでいる光景が目に入る。遠くに見えるビル群や青い空や雲や、視覚に入る360度全てのモノから、「事実はメディアより奇なり」と実感した。彫刻は地味な仕事である。でも宇宙を含めた我々を取り巻く全てを、小さな石ころに凝縮する事ができる。そしてその小さな石ころの存在が、宇宙を含む全てと関係する事も不可能じゃない。私の認識不足かも知れないが、メディア芸術と呼ばれるモノは、ゲームメーカーの開発・宣伝部に近いと感じながら帰って来たのだ。ちと言い過ぎか?
2004.1月。このところの国政の焦点は、自衛隊のイラク派兵と、年金制度の将来展望を絡めた枠組み問題である。イラクへの自衛隊派兵に関して言えば、中途半端な議論を尻目に、既にパンドラの箱を開けてしまった様だ。後に引けない泥沼に足を踏み入れたからには、グローバリズムと自由と民主主義という、ともすると排他的になりがちな西欧理念に基づいて突き進むしか、道は無くなったようだ。年金制度の問題は、はっきり言って、税制上の処理問題として認識し、対処すればの何の問題も生じないのはずだ。掛け金と支払い額との額差を、個々の損得の問題として認識しようとするから、将来的に破綻を来たすことになるし、このまま行けば間違いなく破綻するだろうから問題になるのだ。年金負担額を税金として扱えば、問題無いはずなのだ。その税金の中から年金が支給される訳だから、将来的に税率を上げない限りは、年金支給額が減ることになっても仕方ないはずなのだ。何れにしても、今のところ個々の給料の中から差っ引かれる金額は変わらない訳で、誰も損しないのだ。税金に年金額が組み込まれると、我々国民の、税金の使われ方に対する監視の目が、100倍はキツくなるのは必至。いい事じゃないの・・・。あり余って日々鼻糞をほじっている国家公務員や地方公務員の給料に、多くの血税が使われている事を思うと、国民の監視の目が厳しく行き届くことに超したことはないはずなのだ。勿論、民の公僕として、日々忙しく立ち回っている公務員の方々は数多くいらっしゃるのだが、押し並べて民間企業戦士と、お役所勤めの方々とのモチベーションの異差は一目瞭然、お役所を訪れる度に何時も感じている余談はこれくらいにして、話しを年金制度に戻そう。65歳を過ぎて、年金もらって楽に老後を過ごそうなんて、今や20年早い。第2の人生、老人よ大志を抱け!! なのである。赤瀬川源平氏の言う「老人力」なのだ。今の世の中、何が欠乏してるって、社会の中での老人力が、一番欠乏してるのだ。時代は若者が築くなんて最早過去の事で、21世紀は老人が築くのだ。若者は社会が後押ししなくたって、自分達の立ち回り易い世の中を自然に築いて行くものなんだ。若者第一、若者の世の中だからなんて、成人が一歩譲って後押しする必要なんて無いのだ。若者に甘い世の中は大成しないのである。老人よ大志を抱け。21世紀は貴方達が奮起しなきゃ成り立たない。私は未だ52歳で、老人と言われるにはもう少し時間があるのだが、これからの自分に対して言えることは、老人よ大志を抱けなのである。
これを書いて、数日後にNewYorkで大停電があった。おいおいマジかよ先日、大夕立があった。仕事場はほとんど雨も降らず、遠雷を聞くだけだったのだが、家に帰って電気が点かない。外に出て改めて見渡すと、辺りの家には灯が燈っている。家の中にとって返して、ライターの灯をたよりに電源部を調べたら、漏電遮断器が下りていた。近くに雷が落ちたらしい。遮断器のスイッチをオンにしたら、冷蔵庫の唸り音が始まった。そして灯は燈った。家の中は普段と変わりはないから、安心してテレビを点けてみた。ちゃんと普段の番組が立ち上がった。ビールを飲みながら、コンピューターのスイッチを入れたらモニターが点かない。本体はウイーンという音と共に起動してるのは分かるのだが、モニターが点かないために何がなんだかワキャ分からないのだ。モニターを叩こうが揺すろうが、雷雲のような無気味な黒のガラス面のまま、これではコンピューターをオフにする事もできない。電話(デジタル回線だから、ルーターがあるのだが)も通じない事が分かった。結局、モニターと、ルーターと、ステレオのチューナーと、エアコンがイカレテしまった。翌日、モニターを買った方が安いと分り、液晶のモニターを買う羽目になり、NTTに来てもらって、ルーターを交換した。コンピューターは元通りになり電話は通じるようになった。ステレオは修理に出した。エアコンは無くても我慢出来る。1日掛かりで何とか普段の生活か出来る様に復旧したんだが・・・・。昔、広島のマンションに住んでた時に巨大な台風が来て、2日間停電したことを思い出した。都市で電気が絶たれると生活できない。先ず水が出ないんだ。安全装置が働いてガスも使えない。とにかく何もできないんだ。水が無いからウンコさえもできないんだ。全ての文明機器は粗大ゴミと化してしまうんだ。昨今のメディアアートなるもの、電気が無きゃゴミにもならないし屁にも糞にもならない! 電気が無きゃ成立しないアートが、今や世界を席巻しているんだよ。もし地球的規模で天変地異があって、電気が使えない状況になったら、世の中に優れたアートは無くなっちまうんだぞ。電気は我々にとって空気のようなものか? 普段はその重要性に気付かないけど、無くなったら死んじゃう?いや、基本的に空気とは違うんだ。電気は文明が生み作り出してるんだから、強いて言えば宗教。一神教の神様の様なものなのだ。しかるに我々は完璧に洗脳された信者なんだ。発電所は最も神聖な場所・モスクで、電力会社は神社とか教会とか寺、電力会社の社員は、お坊さんや神主さんや牧師さんだ。メディアorビデオアーチストは、さしずめ電気神の宗教画家・仏師・イコン職人かもしれん。
2002年に書いたんだけど、今年2003年の8月15日に、同じ見解の番組をNHKでやってたぞ8月6日と9日、歴史の中で隠蔽されていた一部分が時間の経過と共に、暴き明かされて行く。広島・長崎への原子爆弾投下に至ったた大国・権力者の思考と意識。大規模な人体実験を思わせる、投下後のデーター収集の執拗さ。そのデーターの隠蔽工作。報道の管制もその一つだ。被爆の悲惨さを被験させられた民族として語り継がなければならないのは当然だが、それがどんなに悲惨かを言葉で語るのは限界がある。生々しいフィルム映像を、視覚体験として見聞きできる様になったのは近年の事である。人々の集結する都市への2回にわたる原爆投下と、それに至った権力者(加害者)の残忍な意識とが見え隠れするのだが、問題は大国の正義の名の下に、それらのデーターや映像が、ひたすらに隠され続けて来た事にある。勝てば官軍とはよく言ったもので、権力のコントロールによって、この超大量虐殺を図った意識と、それを裏付けるデーターの隠蔽とが、自国の中で正当化され正義になってしまうことなのだ。戦争という狂気の中で起こった事の怨念や遺恨から、時代の生き方を見るのは間違った方向に向くから、冷静に世界を見ようとするのだが、許しがたきは、未だに大国の中で、原爆投下の理論と正義意識が継承され続けているという所にある。むしろその残忍さを擁護する方向で理論展開され、今や世界の正義として君臨しようとしていることにあるのだ。
テレビは時代の中で最強のメディアとして、今も多くの情報を提供している。彫刻を志している関係で、NHKの日曜美術館を見ることがあるのだが、美術に関してのジャンルを問わない分かり易い解説と映像に、思わず引き込まれる事もある。先日も一作家を取り上げてのプログラムと、北海道で開催されている野外美術展の紹介が目を引いた。作家のコンセプトや作品の成り立ちのナレーションを聞いていて、思わず鳥肌が立つ事がある。ゾーッとしてしまうのだ。歯の浮きそうな事を真面目に、さも真実の如くに何の躊躇いもなく喋られると、体中に悪寒が走ってしまうから夏のプログラムとしては最適なのかも知れない。懇切丁寧な解説や、作品の見方・見られ方を断定的に提供する事が、そもそもの過ぎたる事なのかも知れないが、真面目に一点一点の解説を聞いていると、作り手は偽善者じゃないのかと疑ってしまうのだ。確かに名だたる作家の中には、それと思われる輩がいる。環境の中で自作の見方感じ方を一方的に強要するやり方はまだ良しとして、情報や文献上の理解で、さも長い間、経験したかの如くに語る者、図面や簡単な模型ひいてはコンセプトを示しただけで、制作は他者に委ね、表では総てが作家の行為と唱える者等、様々なパターンがあるのだ。メディアのサングラスを通過してしまうと、すなわち番組を組み立てるディレクターの眼鏡の中では、糞も味噌も一緒なのかもしれない。情報は真実のみにあらず・・・・、さてさて誰が偽善者なのかなあ。
この4月から二つの大学で非常勤の講師を勤めている。授業の重なる週は4日間も大学に行かなければならないという強行軍だ。一つは工芸学科で、其々の1〜2年生に、彫刻について実技の講義を担当する。でも彫刻の作り方やテクニックを教えつつもりはないから、自己表現・立体表現の基本として、一人一人の自己認識の原点を見つけ出す試みをやっている。もう一つは、週3日間2年生の石の実技授業を見ている。午前中で私の授業は終わるのだが、午後から茨城に飛んで帰るわけにもいかないので、石の工房で自分の制作をする事にした。この暑さの中で、防塵ヘルメットを被り大汗をかき、音と埃にまみれて石と戦っていたら、午後の授業が終わった学生が、自分の石を進めたいとやって来た。普段から真面目に制作に取り組んでる学生だ。突如彼女が不思議そうに聞いて来るのだ。「先生、何やってんの?」「自分の作品を作ってんだよ」と私。「え〜〜、うそ〜、まじで〜、いやだ〜」「何時もそうやって作ってんの〜」「ショック〜、いやだ〜」その会話の意外性に驚愕して、「おお・・・お前なー彫刻つーのは、こうやって大汗かきながら、埃にまみれて、悩みながら作るんだぞ!」「モノを作り出すこと、彫刻を作るつーのは大変な作業なんだぞ!」「分かってんのか!」と、私。「え〜、ウソ〜、先生が自分で彫刻作ってるなんて、ショック〜」そんなやりとりが続いた後で、彫刻と社会と作家とに付いて半時ほど真剣に説教したのだった。この学生も、展覧会に出品した私の作品を見ているはずだけど、どうやら大学の先生はお弟子さんを使って、パパッとカッコヨク彫刻を作るものだと思ってたらしい。作家は何時も奇麗な服を着て、颯爽としているものだと思い込んでたらしいのだ。あー何という誤解! それにしても、こりゃ驚き嘆いてる場合じゃねーぞ。作家として、自作と関る事の重要性、物(現物)に関る難儀さを伝えなきゃいかんのだ。リアリティの欠如した表装的張りぼて文化の中で生まれ育った今の若者に、実在の重さと重要性・それに関る事の大変さを伝えなきゃ。日常生活の全てが簡単に手に入り、全ての物の価値指数が低下する時代の中にあって、メディアの台頭が必然的な社会の進化として享受される時代、張りぼての雑誌や映像が、現実よりも価値を持つ時代を、ただ単に追従的に批判するのは簡単なんだけど、その現実の大切さを如何に体得させるのかが難しいのだ。大海原から一匹の魚を釣り上げ、自らがその命を奪い食する事よりも、スーパーに奇麗な包装で並べられた魚と、そのレシピが価値を持つ時代に育った若者に、釣り竿と鉤と出刃包丁を持たせて、一匹の魚で一日のひもじさを凌ぐ事の大変さをどうやって説くんだ。「うそ〜、まじで〜、魚釣りなんていやだ〜、魚なんてスーパーで売ってるも〜ん」という連中に、どうやって教えるよ。ましてや彼・彼女たちの親も、とっぷりとこの時代の中に浸かってて・・・、いや、親達こそがこの時代を作り上げた張本人で、未だに倒錯した価値基準に何の疑問を持ってない連中なんだもんな。親の教育は難しいぞ。素朴な疑問をぶつけて来た彼女は今、大汗をかきながら、とてもいい作品を作っている。
NHKの深夜放送で若者の討論会「真剣10代しゃべり場」を見た。テーマは「戦争ってなくせるものなの」だったと思う。「文化の違いから戦争が起こる」とか、「国と国との話し合いで戦争は回避できる」とか、「日本は平和だから戦争に付いて考えたことがなくてピンと来ない」(正直な意見だと思うけど)とか、とにかく未熟な意見の飛び交う中、アドバイザーとして成人のシナリオライター氏がコメントを挟んでいた。平和ボケの中で育った若者の幼稚さを露呈させる番組だったのだが、このライター氏のコメントもオブラードに包んだ様なものの言い方と、的を外れた意見で、聞いてて腹が立って来た。いやむしろ、戦争に対するコメンテーターとしての思考の甘さを露呈させるものだったのかも知れない。思わずNHKにメールを書きそうになったのだが、これが再放送だと知って止めた。「戦争は、お互いの文化の違いや考え方の違いで起る訳だから、話し合いで解決できるはずだ」と言う若者が多かったのだが、もちろん思考の違いで起ると言うのは間違いじゃないとは思う。でもその違いとは何処に起因してるかを掘り下げて行かないと、上辺だけの話で終わってしまうのだ。ましてや戦争が文化の違いで起るわきゃない。確かにこの番組は、上辺だけで終わってしまった。今の平和ぼけした若者に、戦争が何故起るのかを解く事は、一見難しそうに見える。しかし戦争の火種は貴方達個人の日常の些事の中にある事を説明する必要を痛感したのだ。クラスの中で威張った奴が、自分の利益になることは熱心だけど、面倒な事はしないとか、不利益になる事はしないとか。あいつが俺の彼女にちょっかいを出して来たから、今度は俺がやってやるとか。道を歩いてたら暴走車が車が突っ込んで来て、思わずカッと来て車に石を投げたとか。昔あいつにやられたから、何時かやってやるとか。先生に受けの言い奴にムカ付くとか。奴は何時もナイフを持ってるから、俺は密かにチェーンを持つとか。強い者や成績のいい奴はナイフを持ってもいいけど、成績の悪い奴がナイフを持つことはダメだと言ってる奴がいるとか。様々な日常の些事の中に戦争の火種がある事を伝えないと、争い事の本質は見えて来ない。そんな日常の些細な不満や怨恨や利害関係が、集団や民族・国家の中で鬱積して行くと戦争になる。日常生活の中で感情をコントロールできない者や、自らの言動が他者を傷つけている事を察知できない者が、大集団の感情の縺れをコントロール出来るわきゃないのだ。今の日本なんて、一寸の火種さえありゃ直に戦争に突っ込んじゃう可能性を其々が持ってる事を知らなきゃならない。戦争は遠い国の話じゃなくて、我々の日々の中にある。コメンテーターには、そこまで言って欲しかったし、そこを言及しないと本質が見えて来ないのだ。テロやテロとの戦も含めて、中東の戦争や民族間の争いも、遣り場の無い怨念を個々の中でコントロールする事から始めないと、解決の糸口は無い。正義と主我とは表裏一体である事に気付かない限り、戦争の火種も尽きない事を知らなきゃ。それらの争い事を対岸の火事と、のんびり眺めている若者を抱えたこの国が、一番危険を孕んでいるのだ。話は少し脇道に逸れるが、流行やファッションに敏感な者ほど、マインドコントロールされ易いことも列記しなきゃな。流行を追う事が文化やアートだと言い切る一部のアーチスト達が居て、その浅薄な思考が、目新しさという事で世の中に受入れられていることを見ると、益々この国に未来は無いのかも。
科学者の一般常識として、人類の安住できる将来は短くて数年らしい。もちろん、全ての人間が死に瀕しているという事じゃなくて、現状での生活環境の維持が不可能になって、歯止めの効かない急激な変動が起こり、その変動に今の文明をしても太刀打ちできないという理解だが、何れにしても、遅かれ早かれ間違いなく起る事なのだ。あとは時間の問題で、短くて後数年という単位には驚かされる。しかもそれが科学者の一般常識というから尚更だ。そんな切迫した状況下で、未だに経済効率を優先する大国のやり方に腹立たしさを覚え、背後にヒタヒタと忍び寄る危機的な事柄に目を背ける国家国民に痴呆性さえ感じるのだ。若者がメディアに上気する現象も、近い将来フィジカルな状況の悪化を無意識に察知しての事かも知れない。経済至上主義が社会構造の背後にある限り、崩壊に向かう迷宮からは抜け出せない。人類がヒューマニズムを原点とし、デモクラシーを体制の基本に据えるのは良しとして、そのパラダイムの背後にある矛盾からは、簡単にに抜け出せない事を知らなきゃならない。1人が生命を維持するのに1日最低1000キロカロリー必要だとして、60億人で60億メガカロリー1日で消費する。1年に22億ギガカロリー必要なんだ。それを何処から調達するんだ。家を作るために資源を消費し、文明生活をするために石油を燃やして、衣食住足りて裕福な生活をする。そんな連中が難民救済を唱えても偽善にしか見えない。60億人が文明にあやかって裕福な生活をする資源が、何処に在るというんだ。もちろん難民や飢える人達を一人でも多く救済しなきゃならないのだが、それが偽善にならないために、自分達の立ってるコスモポリタンな状況をちゃんと把握する必要と、それに対処する行動も不可欠なのだ。デモクラシーでも暗しにならないために、ヒューマニズムが立脚する土壌と土台を、今一度見直す事が急務な気がしてならない。
3月31日、かつての雨引駅のプラットフォームで花見をやった。参加者は野田裕示、細谷進、村井進吾それに私の4人、女性がいなかったのが少々残念だけど、村井氏の手作りちらし寿司、それに刺し身と枝豆、ビール・ワイン・焼酎というシンプルなものだったが、暖かな花曇りという最高の天気に恵まれて、久々にノンビリと昼間っから酒カッ食らって、側に生えている野蒜も具にしながら最高の日曜日だった。それにしても雨引駅と雨引小学校の桜の見事さには、毎年感動している。都市だったら人が溢れてる状況なんだろうけど、散歩の人がちらほらで実に贅沢な事だ。やっぱり住むのは田舎がいい。四季折々の風情に囲まれて、自然を感じながらの生活は、何にも増して貴重な事だと思っている。人はみな都市に集まる方がいいのかも知れない。その分田舎の自然は保たれるしノンビリとした風情も保たれるのだ。原発やゴミ処理場も都市の真っ只中に作って、自分達の出したゴミや必要なエネルギーは自分達で処理する。そしてみんな仲良くワイワイと暮らすのが問題なくていいのだ。みんな深層心理の中ではワイワイゴミゴミガヤガヤを欲しているのだ。東洋人はその特質が顕著で、アジアの各都市状況を見ると一目瞭然。東洋人は混沌の中に身を置く事が大好きで集団を作る事が大好きなのだ。最初っからそんな遺伝子配列になってるんで、変に西洋人の美意識を後書きしない方がいい。
53 安易なナショナリズム
自民党の総裁選と小泉首相の靖国参拝の継続で、日本のアジア外交の方向性と戦後処理の問題が再燃している。
日本としての方向性について、現政府の思考、次期首相有力候補の見解は言うに及ばず、各マスメディアの取り扱いも含めて、それらを冷静に見聞していると、どうやら日本としてのナショナリズムの高揚を、一方向に示唆する指向が余りにも濃いように感じている。確かに感情的な脈絡で諸外国と対峙し、内部的に正当性を主張することは、非常に安易にナショナリズムを高揚させる常套手段である。果たして、ここに来て若者の感情上で、この安易なナショナリズムが蔓延り始めた感があるのは否めないようなのだ。
世界の歴史を冷静に見てみると、この安易な方向でのナショナリズムの高揚が、それぞれの国での国際感情の亀裂を深め、ひいては国際紛争・戦争に発展していく事例は枚挙に暇がないほどである。このところの日本を見てみると、歴史(かつての戦争)に何を学んだんだ?と思ってしまうのは、私だけだろうか。言葉だけの国際平和、言葉だけの戦争放棄、裏を返せば自国だけが正しいという国民感情が日本国じゅうに蔓延り始めているのは否めない。相手国民が日本に対して未だにネガティブな感情を抱いているから、相手国政府が国民感情を未だにネガティブにコントロールしているから、日本は日本で自分たちの好きにやる、それの何処が悪い!と、短絡的・感情的に言い張ることが、果たして戦争放棄した国の進む方向なんだろうか?
戦争放棄した日本国民として勇気を持って、相手の国民感情まで解かすほどの大いなる愛を持つこと。こんな私の思考は、理想論かも知れないが、考えてみれば今の世界の中で、永遠なる戦争放棄を謳っている国も理想論から出発しているはずである。どうせ理想論なら、徹底的に理想論になってこそ、その意義がある気がするのだが。言葉だけの戦争放棄では近隣諸国は付いて来ないはずなのだ。
この局面で、安易に自己肯定する方向に流れるのではなく、今こそ世界の中での日本の地位と立場を、勇気を持って熟考する必要があるように思うのだが。それが戦死者への唯一の供養だと信じている。
関連記事-1(小泉とネオナチ)
関連記事-2(靖国)
48 クンスト
世の中、アートが花盛りで誰でもアート、猫も杓子も何かを創ればアート、音楽を奏でればアーチストと言うことになる。
嘗てアートは芸術家の特権だった様だが、今は世の中誰でも芸術家・アーチストである。小学生や中高校生、主婦の手芸、老後の趣味に至るまで、モノを創ればアートという言葉が当てはまるのだ。
でもそれは間違いじゃない。アートとは人間がモノを創ること。創られたモノは全てアーティフィシャルなモノなのだ。
最近私はアートに興味が無くなってきた。アートという言葉が意味するモノに興味が無くなってきたのだ。その一方で、ドイツ語で言うクンストが重要なんじゃないかと、ひしと感じている。(ドイツ語の中にはアートという言葉もあるのだが、アートとクンストとは違うモノなのだ)
クンストとは哲学上の思考を含んだ言葉で、日本語に直訳すると美術もしくは芸術になるんだろうか?適切な言葉が無いような気もするのだが、その意味する所にあるメタフィジカル上の思考領域が非常に気に入っている。これは小中学生は創ることが出来ないし、主婦の手芸とも違うし、楽しいから創るとか、な〜んとなく創ってみちゃったというのも違う。フィジカル上にある喜怒哀楽の感情から出てきたモノとも違うんじゃないかと思っている。
況わんやクンストの次元に達することは、そうそう容易い事じゃない。モノを創るという背後に、深い洞察と思考と理念が必要なのだ。もちろん形や行為を物や空間に置き換える時点での、個としての感性も重要なのだが、それに加えて、自らの人生を掛ける思いが必要になってくる。一時の思いつきや、華やかさや、社会性や、悲壮感や、体験観等とは次元の違うことなのだ。
もちろんそれら総てを含有して、もしくはその多くを含んでも尚素晴らしいモノはある。しかしアートと呼ばれるモノ総てがクンストをクリアしている訳ではない。むしろ、現代の中でアートとしてもてはやされるモノの多くは、その対極にある事の方が多いのかも知れない。
現代に於ける経済ヒエラルキーの中では、クンストよりもアートの方が上位に位置しているけどねえ・・・。
47 タダは怖いよ
このところブログ系サイトが人気らしいけど、そこそこ怖いんじゃないかと思っている。
自分のページをタダで持てるし、写真もアップできるし、日記も書けるし、同類とのコミュニケーションも図れるし、願ったり叶ったりなんだけど。でも全体の構図を深く考えてみると、それなりの思惑というか手段というか利害というか・・・、端的な一例として、個人情報の密かな流出等々も見えてくるし・・・・。
全てを黙認して、填ってる人達には何も言うつもりはないけど、世の中タダは怖いということだけは確かじゃないかなあ。
41 石に挑む
最近の現象として、石に触れたい、石を彫りたいという学生が増えつつあるんじゃないかと感じている。
今の社会・アートシーンの中で、最もロウテクと思えるジャンルである。尚かつ、素材として一番硬くて重くて寡黙で扱いづらい物体を選ぶことになる。
世の中の在り方が、バーチャルな方向に加速度を増している状況下で、どうしようもなく頑固で寡黙で宇宙的な存在を手にしてみたいという若者が、僅かながら増加傾向にあるのだ。
環境に適応し過ぎた種族は、絶滅するという法則を、聞いた事がある。なるほどねえ・・・。
今の若者の心の空洞を埋めるモノは、よりハイテクな現象や行為や情報じゃなくて、一番ロウテクな事・・・。地球のかけらを手にし、星のかけらに挑む事かも知れない。今後も、石に興味を持つ若者が増え続けるとすれば、人の未来にとって、まんざらじゃない気がしている。人類史上最古の素材は、未来を見つめる上での、手掛かりになるかも知れない。
40 靖国
このところ、小泉首相の靖国公式参拝問題で、アジア諸国との関係がギクシャクし始めている。小泉首相をはじめとする日本政府の理論と、中国をはじめとするアジア諸国の見方・受け取り方が180°違うのだ。
小泉氏は、不戦の誓いのために、戦争で亡くなった多くの人達と、戦争を指揮した人達も含めて共に祀られている神社に参拝する事の、何処が悪いという理論。如何なる理由があるにせよ侵略戦争を指揮し養護した人々の英霊も祀られている神社に、一国の首相の立場で参拝する事自体、許せない行為だと感じているアジア諸国の受け取り方。一方の論理と、その論理で導き出された行為への批判(リアクション)である。
人間一個人だって、昔の精神的傷が癒えるのに一生掛かるかも知れないのに、国家間の精神的傷が早々簡単に癒えるとは思えないのだが、このまま行けば、両者の溝は益々深くなるばかりである。
昨今の国際紛争や内乱・戦争の当事者相互の論理を探ってみると、そのほとんどが過去に根ざした傷と怨念である。そしてお互いに、自分たちこそは正しいと主張している事だ。一方的に自分たちは正しいのだから、当然相手は間違っているという短絡的理論が正当化されるのだ。それがエスカレートして行くと、一国のメンツとして後に引けなくなる訳だ。結果的に全ての事が噛み合わなくなって、啀み合い対立し、戦争へというシナリオにるのである。些細な啀み合いが事が大事に至るのだ。況わんや、最近のテレビ報道、テレビ討論を聞いていると、靖国参拝は正しい事だと短絡的に主張する輩が多く出て来る。もちろんアジア諸国内の国民教育の問題はあるにしても、嘗て日本が兵を繰り出し、多くの市民を巻き添えにした事は間違いない事なんだ。昔このコーナー上で「小泉とネオナチ」にも書いた事だけど、ドイツと日本の事情は微妙に違う事は分かるけど、一国の長がヒットラーやナチの祀られている(もしあるとして)場所に公式参拝したら、他国がどう反応するか? 火を見るよりも明らかだよね。逆の立場に立って靖国問題を見ると、中国や韓国の反応は当然の事だと思わない? 小泉さんが言ってる内政干渉が通じると思う?
一国の長たる者、そのパフォーマンスとして、アジア諸国との協調と日本の未来のために、たとえ国民の大多数が参拝せよと言うにしても、ひいては過去の戦争で命を落とした英霊のためにも、敢えて靖国神社には参拝しないというのが、政治を司る者の真の勇気だと思うのだが。
一国の首相が、国の立場を危うくして靖国神社に参拝する事で、靖国に在るとされる御霊が、救われるとでも思っているんだろうか?東京裁判で戦争犯罪人となった人の御霊が喜ぶとでも思って居るんだろうか? 逆なんだよ! 世界平和のために、怨念に起因した対立や戦争を回避するためにも、参拝を断念する。それでこそ祀られている英霊は真に救われるのだ。このままエスカレートして行けば、戦争で亡くなった多くの人達は犬死にじゃないかよ。
最初に行くと決めたから行くんだい! 今止めると外国の言いなりになったみたい、なんて、バカな駄々っ子はここら辺で終わり。真の勇気を出せよ!小泉さんよ。あんた日本とアジアの将来を担っている国家の長だぞ。
39 君が代
昨今、国歌「君が代」斉唱問題で、東京都も含めた自治体の教育委員会の方針と実務教員との考え方の違いが、頻繁に報道され取り沙汰されている。
私は素直に言って、「君が代」の曲は好きである。この曲が国歌である事に不満は無いし、国歌として、他に比類無く荘厳で時空観のある曲だと思っている。
かれこれ十数年前だと思うのだが、広島でアジア競技大会が開催された。いわゆるアジアのオリンピック大会だ。この大会の金銀銅メダルを私がデザインしたのだが、そんな事で、大会の開会式に招待されて、スタジアムの一観衆になった事がある。
天皇陛下の御臨席の元、メーンイベントの国歌斉唱と国旗掲揚になる。スタジアム全員が起立して、天皇陛下を見上げて、「君が代」を歌うのだ。
この時私は、今まで感じた事の無い一種異様さを察した記憶がある。「君が代は、千代に八千代に細石の巌となりて、苔のむすまで」という国歌の歌詞を、天皇陛下いわゆる歌詞の中の「君」を仰ぎながら斉唱する事の異様さを感じたのだ。これって?北朝鮮の国民が、金正日氏を讃えて「我が君主様は永遠成れ」と歌う事と一緒じゃない・・?
先にも書いたのだが、「君が代」の曲は好きだ。でもハッキリ言って、この歌詞は民主主義を尊重する国の歌じゃない。「君主様の世は永遠なれ」と歌う北朝鮮と日本と、歌詞の謳っている事は全く一緒なのだ。
ニュース報道等で、北朝鮮国民の君主様への歯の浮く様な賛辞や斉唱を耳にして、何時も鳥肌の立つ思いがするのだが、日本国国歌と北朝鮮のそれと一体何処が違うの? 全く同じ事を我々も国歌として斉唱しているんだよね。ましてや、その国歌の斉唱を政治的に強制するというのは、北朝鮮の国民洗脳政策と、いったい何処が違うの?
「人のふり見て我がふり直せ」と言う諺がある。近隣諸外国に対して、正々堂々と渡り合おうとするのなら、我々の内部も是正していかないと本物の発言力を持たないわな。このコーナーに「小泉とネオナチ」というタイトルで嘗て書いたけど、小泉さんの靖国参拝問題も一緒。片方の耳を塞いで短絡的な言い逃れに終始している。ひいては、このところ立て続けに起こっている中国や韓国の反日暴動に対しても、歯に物が挟まったような煮え切らない言い方でしか弁明できないんだよ。
君が代の曲は悪くないから、ほんのチョット歌詞を変えればいいんじゃないかなと思っている。「日本の未来は〜〜〜」とかさ、「我々の國は〜〜〜」とかさ、「日本国は〜〜〜」とか。
恐れ多い事ながら、天皇陛下も同じように思ってんじゃないかなあ。ただ自分からは言い出せないんだよね。きっと
37 21世紀の美術
2004年12月、テレビから情報を得る事に疑念を持ちながら、つい情報として咀嚼しまう今日この頃なのだが、公共放送で放映されていた某美術館の展覧会情報を見た。
21世紀初頭の美術の一方向性を示唆している展覧会であると理解した。しかし美術館空間全体を使ってのインスタレーション作品やディズニーランド型の体験型作品の多くに、少なからず失望させられてしまったのだ。それなりの作家のコンセプトをベースに組み上げられているのは理解できるのだが、押し並べて一つのイメージ空間を演出する手段として、小道具としてモノ作りが在る、その事にたまらなく疑念を感じてしまった。
作品という舞台の中に鑑賞者が入り込んで、演出された空間美術を鑑賞し体験する。その何所がいけないの?と疑問を持たれる方も多いと思うのだが、演出されたモノ(空間)は、所詮絵空事なのだ。鑑賞者に疑似体験を与えるということ自体が、ウソ事の始まりになるのではないか?。鑑賞者(市民)は日々何も感じない人達の集合体だから、ご丁寧に疑似体験の場を演出して、美術という難解そうに見える概念をオブラートに包んで飲み込み易くしてやらないと、何も感じないんじゃないかという思考自体が、美術の破綻を意味しているのではないか?
立体表現をする者は、立体すなわち物の存在からは抜けられない。物を作り使って、物に語らせる行為の中で、物の本質としてのウソを作り上げてはならないと常々思っている。そこに於いて、物をしての演出行為が、ウソ事を介在させる事にならないか?、作家の脳裏にあるスクリーンイメージ(絵空事)の押し売りにならないか?。
映画のセットや舞台の装置は、スクリーンやステージを通した、共通認識上の架空のストーリー中で成立する。美術館という現実に付随した空間の中で、物の本質以外の部分で仮想体験なんてしたいとは思わないし、そこで仮想体験する事が、美術に触れ鑑賞し感じる事だとは思わない。
美術館での架空イメージの演出が、ある意味で愚劣な行為に成り下がる可能性がある様に思う。ディズニーランドの疑似演出空間と、美術館のそれとを比較してみて、私はディズニーランドの方が潔い気がしてならない。何故なら、我々は最初から作り話の中に居る事を理解し認識しているからだ。
36 某野外展
2004年11月8日、長年続いている、某野外美術展を初めて見に行った。
招待作家が十数名、一般参加も併せた出展数はかなりの数にのぼる大きな野外展だ。山あり谷あり藪ありの地形の中を、地図を頼りに作品を探して歩くのだ。思わぬ所での薮漕ぎや山歩きは実に楽しかった。
ロケーションはさておいて、展覧会自体の印象として、美味しいラーメンを食いに老舗に出向いたら、即席のカップラーメンを食わされた思いがした。中に1〜2点、本出汁の効いた生麺が味を際立たせていたのが、唯一の救い。若い美術家が出展の中心らしいのだが、自分の作り出す作品やインスタレーション等に費やすエネルギーの欠落、もしくは、余りにも安易な方位での思考と制作が目立った。一般参加の人達に関しては、質の善し悪しを問うても仕方ないと思うのだが、展覧会全体としての制作アドバイスの必要性を感じた。
長年継続する事の価値は、一回一回の展覧会の質の向上に在る。それが一般市民を動かす原動力になると信じている。
32 音戸の課題
2004年8月27日、暑かった夏が終わろうとしている。それと歩調を合わせる様に、音戸の展覧会も終わりを告げようとしている。
音戸の展覧会も会期中、色々なメディアに取り上げられたようだ。音戸町にとっては悪くない事なのだが,若い作家達にとって、はたしてそれが良かったのか悪かったのか?難しいところである。
作家のモチベーションが,何所にあるのかが問題なのだが、押し並べて言える事は、それぞれのアーチストの課題として、自己の実力を向上させ、同時に作品の質を高めるという基本的な部分での課題が残ったようだ。何れにしても、今回を一つのステップとして、作家としての質を高める事が重要な気がしてならない。
来年には、音戸町は呉市と合併する。2年前に倉橋町から始まったこの展覧会も、次回を持てるのかどうかが危ぶまれるのだが、そこは企画運営に携わってきた広島市立大学の勇士諸氏に匙を預けて、次回のゲニウスロキ展に期待したい。
30 ゲニウス・ロキと、時空間
2004年7月31日、「音戸アートスケープ、ゲニウス・ロキ2004」展が、台風10号の襲来とともに開幕した。展覧会の詳しい内容は、リンクページから展覧会の公式HPにリンクして御覧下さい。
「アートスケープ」とは、アートのある風景だよね。この意味は直ぐに分かるのだが、「ゲニウス・ロキ」とは・・・? と思われる方達も多くいらっしゃるんじゃないかと思うので、展覧会のチラシ等に書いてある一文を紹介しよう。
「ゲニウス・ロキ Genius Loci」とは、ラテン語で地霊や土地神を意味し、現在では主に、場所のコンテクスト(歴史・風土・ライフスタイルなど)を読み取り、それを建造物の設計や都市計画に反映させるという建築用語で用いられています。ただし、「地政学」などが類似した傾向の土地を分類して把握する方法を採るのとは異なり、「ゲニウス・ロキ」はあくまで固有性(とりかえのできない“ここ”・とりかえしのつかない“いま”)に関与するものです。
上記は、かなり分かり易い解説なので,敢えて補足する必要もないのだが、私なりの所見で言えば、それぞれの地域独特の個性、すなわち、地域の風土・住人の生き方や考え方・根付いている文化・流れている時間等々、総てを引っ括めた空間の特性じゃないかと思っている。
(写真は、音戸アートスケープ・ゲニウスロキ展の作品設置状況。河野商店の奥の間,座敷空間である。展覧会が始まる1週間前に家主であるお母さんが亡くなった。そのお母さんの御遺志があって、河野商店を展覧会の空間として使わせていただいている。奥の仏間には、お母さんの遺影と遺骨が期間中も安置され、仏壇には常時灯が灯っている。現在は息子さんがお住まい。)
日本の街並、いや世界各地の街並には、それ、ぞれの特徴・特異性がある。人々が住み着いて長年生活している場所には、必ずその地域特有のゲニウス・ロキが存在すると言えるのだ。
さて、話を本題に移すとしよう。問題は、そんな個性的空間にアーチストが侵入し、自らの作品を展開する意味と意識、すなわちアーチストの制作理念なのだ。展覧会の最重要課題は、彫刻やインスタレーションや絵画等のビジュアルアートをして、特定空間に侵入する作家自身の理念と、侵入し展開したモノが状況の中で如何なる言葉を持ちうるかという作品の質の問題なのである。
過疎化が進行中の中小都市で,人集めの催事イベントとして同様の展覧会が開催される事が多い昨今、ここに至って、参加作家(アーチスト自身)の空間認識と作品理念(意識)と、モノの質が問われているのだ。
もっと分かり易く,それぞれの事柄に付いて書き進めて行く事にする。
アートの種類
近年のアート作品には何種類かあって、種類によっては、巨大な仕掛けが必要だったり、小さなモニターと再生機だけで事足りるモノもある。
その主なモノとして、周りの空間に働きかける種類や空間状況を必要とする種類、すなわち空間に対して開かれた種類の作品と、空間自体を新たに設営する事で成立する体験型のものと、空間を必要としない種類、空間に対して閉じた作品とがある。
前者は彫刻やインスタレーションを代表とする立体アートや絵画等の平面アート、体験型は、空間そのものを作るディズニーランド形式、後者はメディアアートやビデオアート等のスクリーンの中で完結するものである。後者の閉鎖型は、建物の壁や風景の中に投影する映像等の例外はあるのだが、空間を必要としない。脳が描き出すイリュージョンの中で完結できるのである。ポケットにある携帯電話の中の映像で完結する事さえも可能なのだ。昨今の国際展の主流が、閉ざされたアート群になっているのも、空間というややこしいものを必要としない,ある種の利便性に他ならない。
片や、空間を必要とする開かれたアートの展覧会や、体験型は,音楽で言うところのライブなのだ。空間の広がりや、そこに居る人々や、流れている時間、漂っている空気までが影響して来る。開かれたアート群や体験型が、物や色や広がりを媒体としている以上、作家が好むと好まざるとに関わらず、空間の成り立ち全てと関係を持つのである。それらとの関係性の中で、アートが事物として自立する事により、作家の思考や観念を超えた相乗作用が生まれるのだ。リアリティーは幻想より奇なりなのである。
空間認識について
ここで問題視するのは、上記の「空間に対して、開かれたアート群」の話である。
アーチストが自らの作品を展覧する空間として、大きく分けて、美術館やギャラリー等の、あらかじめ美術展示を想定した空間、すなわち個性を持たない無機的な空間と、一般空間すなわち市民が生活している日常空間という、二種類がある。
美術館等の展示のために設営された空間には、ゲニウスロキの様な特異性や個性は無い。言わばアーチストが何を展覧しても、それなりに空間自体が変容し追従してくれのだ。それに比べて一般空間は、その成り立ちに多様な指向性や個性があって、空間が作品に追従する事はない。展覧するモノの質や制作理念が脆弱だったりすると、展覧物はゴミ同然になってしまうのだ。
さて、一般空間の強さや指向性は、何に起因しているのか? もちろん、そこに居る人も含めての、複雑な構造物や構成に寄る所が大なのだが、それらを総合して忘れてはならないのが時間軸の深さと広がりが在る事である。過去から延々累々と続いている時間の広がり、すなわち深遠な時空間の広がりが存在するのだ。片や展示専用空間にはそれが無い。時間軸の広がりが無いのである。(新しい建造物にも縦の時間軸の広がりは無い。)
開かれたアートは、空間状況が介在するという事は先に述べたのだが、重要なのは、そこに時間空間も介在している事である。
作品理念とビジュアルアートの可能性について
時間も介在した空間の中で、作品を自立させる事は簡単じゃない。しかし、時空間と共存しながら壮大な相乗効果を生み出す作品が既に存在した。逆にその相乗作用こそが、「開いたアート群」にしか許されない社会性でありエネルギーだと思うのだが、果たして、そこに行き着くのには作家として、作品として何が必要なんだろうか・・・・。それが最初から分かってれば苦労はしないのだが、とりあえず私の独断と偏見で推論する事にする。
その前に作家(アーチスト)としての、初期設定事項から話を進めよう。先ず第一、色々な事象に対して敏感な感受性を持つ事が肝要になる。第二に、作家として人生を掛ける必要性を感じる。(命を掛けると死ぬ羽目になるから、命まではと思うのだが、嘗て命を掛けた作家達も居るのだ。)それはモノ作りのモチベーションの問題で、有名になりたいからとか、とりあえず数打てば当たるし駄目なら他の事をやるなんて思ってる輩は芸能人を目指せばいいのだ。
それら初期設定をクリアした人が作家になれる権利と、本物を作れる可能性を得ると思うのだが、作家として成立する事が,十分条件じゃない。
さて,話を本題に戻すとしよう。
先ず思う事は,彫刻とは何か?芸術(アート)とは何かという事である。空間に迎合する事でもないし、拒否する事でもない。自らの表現目的を解説する事ではないし、自らのコンセプトやストーリーを分かり易く見せる事でもない。簡単に言えば、フィジカルな事柄や物や空間を、メタフィジカルな領域に引き上げる事。その行為が、作品を作るという行為であると思っている。堀内正和さんの言葉で言うと、物や空間の領域(形而下領域)を「形而中領域」に昇華させる事なのである。逆に、形而中領域に達していないモノは、浸入した空間の中で作品として自立できないのである。ここで区別されるべきは、先の「アートの種類」で述べた、体験型の作品である。それらの多くは、体験や経験というフィジカルな形而下領域で完結する物がほとんどで、非日常空間の体験の中で新たな言葉を発する事は、ある種の洗脳に近い。宗教上の儀式や洗礼に近いのだ。だから特殊空間の設営自体が借り物のディズニーランド形式になってしまうし、芸術として昇華しきれないのだ。
鑑賞者の次元で、優れた芸術と、それが成立する空間に触れた時の感動は、その中にあるストーリー性でもないし、体験内容でもないし、作家のコンセプトでもない。物や空気に触れた時に感じる、鑑賞者の観念と感性の振動なのだ。もちろん作者と鑑賞者は別人だから、同次元で共鳴する事は不可能に近い。鑑賞者は鑑賞者の次元で独自に振動するのだ。
作品を設営する空間が、個性を持てば持つほど、空間に情念を感じれば感じるほど、そこで自立する事柄から受ける感動の振幅は大きくなる。逆に美術館等の無機的空間内で、それとなく成立してる様に見えるモノが、一般空間の中ではゴミになってしまう可能性がある。作家の行為やコンセプトやストーリーや演出が先行するモノは、独立した作品として成り立っていない。その背後にあるストーリー等の説明書きが必要なのだ。すなわちモノとして独立したメタフィジカル領域(形而上領域)を持っていないのだ。
少し蛇足になるのだが、一般空間での作品設営の時に、周りの空間の状況や有り様を、展示作品のために変容させる事(作品のために必要じゃない物を奇麗に片付けるとか、色を塗ってしまうとか、長年生きて来た木を切ってしまうとか)は、決していい事だとは思わない。過去から延々と続いて来た時間空間を断ち切る事になってしまうし、変質させる事になってしまうからなのだ。
そんな事よりむしろ、ゲニウスロキの空間の中で、自立できる物、対峙できる空間の広がりを持ったモノを、作る事の方が重要なのだ。21世紀、今ここに来て、芸術(アート)には無限大の可能性とエネルギーが潜んでいる事を感じている。
薄暗く狭い空間の中で、小さなスクリーンに満足する事よりも、ライブとして広大な空間に出て行く事の方が、何万倍も面白いと思うのだが・・・・・。現実的に、小さな作品が都市全体と対峙する可能性だってあるのだから。
そんな、たわいもない事を事を考えながら日々作品に取り組んでいる。
生きて行く上で、芸術や彫刻が必要か不必要かは関係無い。経済的に成立すとかしないとかも関係無い。私自身の信条の問題、アーチストの情念と理念の問題なのだ。
* 内弁慶
2004年6月18日、いつの間にか、日本の自衛隊が、イラクでの多国籍軍に参戦する事になったようだ。
その是非の議論が全くなされないまま、先日の小泉氏とブシュ氏との会談で、「日本の自衛隊も軍隊に参加するよ。日本国憲法がどうであれ、ブッシュちゃんが何をやってても、僕はブッシュちゃんについて行くから、心配しないで! 今までのように仲良くしてね!」こんな会話がなされたようだ。日本に居る我々国民は、全くの事後報告で、狐につままれた気分である。
それを正当化するかのごとくの、政府要人の間に合わせ的な弁解が、テレビでも盛んに放映されている。
一体これは何なんだ?いつの間に小泉氏が、日本の憲法になったんだ?
自衛隊は戦闘地域には踏み入らないとか、戦闘行為はしないとか、後部支援しかしないんだとか、全く日本の中の一部の人にしか通用しない身勝手なお膳立てばかり強調しているが、世界のほとんどは、戦闘行為も辞さない軍隊に参戦するんだ思っているし、現実的にそうなる事は容易に想像できる。現にヨーロッパ諸国(フランス、ドイツ、ロシア、etc)は、自国理論と判断で多国籍軍に参加しないのだ。小泉氏はと言えば、君主ブッシュ氏の前では、批判はおろか、リンゴを磨きながら一生懸命に尻尾を振る・・・・・? 内弁慶の典型かもしれない。
極端な言い方をすれば、現在ブッシュ氏がやってる事を正しい事だと思ってる人間は、アメリカ国民の半数弱を除いては、世界の中でほとんど居ないんじゃないかと思っているのだが、しかし自衛隊の多国籍軍参加を、日本国民の半数が支持しているらしいと聞いて、こりゃ総ての事柄に関して、私の認識不足なのかも・・・?
それにしても、イラクの安定とテロ撲滅のために、日本がなすべき事を、今こそ再考すべき時だと思うのだが。
* 平和憲法と人質
2004.4月15日、イラクで人質になっていた日本人3人が解放された。何はともあれ良かった。
イラクの人達のために危険を顧みず出かけて行っている人達を、同じ人間として、イラク武装勢力も抹殺する事はできないし虐待もできない。人間誰しも、誠意を持て接すれば誠意を持って返ってくるのだ。
私の結論から言おう。
最早、イラクに自衛隊が派兵されている今。もし本当にイラク復興のために行く必然性があると言うのなら、派兵されている自衛隊は、全ての武器を放棄すべきだ。イラクの復興のために行くというコンセプトを、純粋に全うすべきなのだ。戦いのために行ったのではないという強固な意志を、身を挺して伝えるべきだと思っている。
戦いが戦いを生み、武力制圧が武力反抗を生むという、悪循環を断ち切れるのは、日本の勇気しかないのかも知れない。自衛隊の一員として出向いている隊員の方達にとっては、人柱的行為だとは思う。武装勢力やテロリストに攻撃される危険性が大いにある中で、全ての武器を捨てる事は自殺行為に近いのかも知れない。しかし何れにしても自衛隊からは攻撃できない訳だから、如何なる武器を所持していても同じ事なのだ。武器を持って、野営地の中でビクビクし悶々としているよりも、武器を持たない復興支援を謳って、堂々と支援協力する事の方が、何百倍も安全なのではないか?
日本の自衛隊は、全ての武器を放棄して、純粋にイラク復興協力するという事を、イラク国民に対して、ひいては世界に対して示す事。アメリカのように、武力を正当化し、平和のため民主主義のために平気で武力行使する詭弁的行為から一線を画するためには、武器を捨て純粋になるしかないのだ。
世界平和のために、日本にできる事、いや日本にしかできない事は、武器を捨てる事しかないのではないか。どんなにやられても、武力では絶対にやり返さないという、勇気を持った国になる事。戦争放棄という世界に冠たる平和憲法を持つ日本の取るべき真の勇気は、自らを呈して、全ての武器を捨てる事しかないような気がする。
平和に対して純粋になる事、勇気を持って身を挺する事、それが日本国民に課せられた21世紀の使命だと思うのだが。
* 靖国神社参拝とネオナチ
2004.春、小泉首相の靖国神正式社参拝に関して、再度、中国が厳しい批判のコメントを出した。それに応えて小泉首相が、靖国神社の参拝はこれからも続けるというコメントを出した。
はっきり言って、小泉ちゃんは国家元首としての常識に欠けると思わざるを得ない。彼の個人的な信条や宗教を否定はしないが、それはあくまで小泉純一郎という個人としての事、国を代表する一国の元首が取るべき行為じゃない。
ドイツのシュレッダーさんが、ヒットラー(墓は無いかも知れない)やナチ幹部の墓に公式参拝するのと全く同じ行為だ。もしドイツの首相がヒットラーの墓に公式参拝したら、周りの国々はそれこそ黙ってないだろうし、日本も同様の危惧の念を表すのは当然の事。どう頑張っても正当化できない事なのだ。第二次大戦の戦没者追悼という名目だけじゃ事は済まない。
そんな分別も付かない短絡的首相は、一国の主としての器と裁量に欠けると思わざるを得ない。
彼がアメリカのネオコン連中に追従しているのは分かっているんだが、ひょっとしてネオインペリアリスト(ネオ帝国主義者)かもしれない?
* 文化庁メディア芸術祭
2004.春、東京都写真美術館でやっていた「第7回・文化庁メディア芸術祭」を見に行った。
薄暗く狭い会場に、溢れんばかりの人である。やっぱり若者が多い。小さなスクリーン(とは言っても2m大はあるんで、小さいとは言えないかも知れない)や、テーブル形式のインタラクティブ作品に黒山の人だかりで、じっくり落ち着いて見る事も難しいのだが、全体の印象として、この展示会は高校や大学の文化祭、もしくは発明工夫展示会といった観が強い。
全ての作品に押し並べて言えるのだが、イメージが貧困で思考が単純で表現が稚拙でイメージのスケールが小さい。これが今を時めくメディアアート? 確かにアーティフィシャルと言えば人工物のことだからアートなのだが、少なくともドイツ語で言うクンストじゃない。
美術館を出て、陽光が降り注ぐ青空の下、大勢の人々が其々にワイワイガヤガヤ楽しんでいる光景が目に入る。遠くに見えるビル群や青い空や雲や、視覚に入る360度全てのモノから、「事実はメディアより奇なり」と実感した。
彫刻は地味な仕事である。でも宇宙を含めた我々を取り巻く全てを、小さな石ころに凝縮する事ができる。そしてその小さな石ころの存在が、宇宙を含む全てと関係する事も不可能じゃない。
私の認識不足かも知れないが、メディア芸術と呼ばれるモノは、ゲームメーカーの開発・宣伝部に近いと感じながら帰って来たのだ。
ちと言い過ぎか?
*
老人よ大志を抱け Old persons be ambitious
2004.1月。このところの国政の焦点は、自衛隊のイラク派兵と、年金制度の将来展望を絡めた枠組み問題である。
イラクへの自衛隊派兵に関して言えば、中途半端な議論を尻目に、既にパンドラの箱を開けてしまった様だ。後に引けない泥沼に足を踏み入れたからには、グローバリズムと自由と民主主義という、ともすると排他的になりがちな西欧理念に基づいて突き進むしか、道は無くなったようだ。
年金制度の問題は、はっきり言って、税制上の処理問題として認識し、対処すればの何の問題も生じないのはずだ。掛け金と支払い額との額差を、個々の損得の問題として認識しようとするから、将来的に破綻を来たすことになるし、このまま行けば間違いなく破綻するだろうから問題になるのだ。年金負担額を税金として扱えば、問題無いはずなのだ。その税金の中から年金が支給される訳だから、将来的に税率を上げない限りは、年金支給額が減ることになっても仕方ないはずなのだ。何れにしても、今のところ個々の給料の中から差っ引かれる金額は変わらない訳で、誰も損しないのだ。税金に年金額が組み込まれると、我々国民の、税金の使われ方に対する監視の目が、100倍はキツくなるのは必至。いい事じゃないの・・・。あり余って日々鼻糞をほじっている国家公務員や地方公務員の給料に、多くの血税が使われている事を思うと、国民の監視の目が厳しく行き届くことに超したことはないはずなのだ。勿論、民の公僕として、日々忙しく立ち回っている公務員の方々は数多くいらっしゃるのだが、押し並べて民間企業戦士と、お役所勤めの方々とのモチベーションの異差は一目瞭然、お役所を訪れる度に何時も感じている
余談はこれくらいにして、話しを年金制度に戻そう。65歳を過ぎて、年金もらって楽に老後を過ごそうなんて、今や20年早い。
第2の人生、老人よ大志を抱け!! なのである。赤瀬川源平氏の言う「老人力」なのだ。
今の世の中、何が欠乏してるって、社会の中での老人力が、一番欠乏してるのだ。時代は若者が築くなんて最早過去の事で、21世紀は老人が築くのだ。若者は社会が後押ししなくたって、自分達の立ち回り易い世の中を自然に築いて行くものなんだ。若者第一、若者の世の中だからなんて、成人が一歩譲って後押しする必要なんて無いのだ。若者に甘い世の中は大成しないのである。
老人よ大志を抱け。21世紀は貴方達が奮起しなきゃ成り立たない。
私は未だ52歳で、老人と言われるにはもう少し時間があるのだが、これからの自分に対して言えることは、老人よ大志を抱けなのである。
* 電気と神 2003年
これを書いて、数日後にNewYorkで大停電があった。おいおいマジかよ
先日、大夕立があった。仕事場はほとんど雨も降らず、遠雷を聞くだけだったのだが、家に帰って電気が点かない。外に出て改めて見渡すと、辺りの家には灯が燈っている。家の中にとって返して、ライターの灯をたよりに電源部を調べたら、漏電遮断器が下りていた。近くに雷が落ちたらしい。遮断器のスイッチをオンにしたら、冷蔵庫の唸り音が始まった。そして灯は燈った。
家の中は普段と変わりはないから、安心してテレビを点けてみた。ちゃんと普段の番組が立ち上がった。ビールを飲みながら、コンピューターのスイッチを入れたらモニターが点かない。本体はウイーンという音と共に起動してるのは分かるのだが、モニターが点かないために何がなんだかワキャ分からないのだ。モニターを叩こうが揺すろうが、雷雲のような無気味な黒のガラス面のまま、これではコンピューターをオフにする事もできない。電話(デジタル回線だから、ルーターがあるのだが)も通じない事が分かった。
結局、モニターと、ルーターと、ステレオのチューナーと、エアコンがイカレテしまった。
翌日、モニターを買った方が安いと分り、液晶のモニターを買う羽目になり、NTTに来てもらって、ルーターを交換した。コンピューターは元通りになり電話は通じるようになった。ステレオは修理に出した。エアコンは無くても我慢出来る。1日掛かりで何とか普段の生活か出来る様に復旧したんだが・・・・。
昔、広島のマンションに住んでた時に巨大な台風が来て、2日間停電したことを思い出した。都市で電気が絶たれると生活できない。先ず水が出ないんだ。安全装置が働いてガスも使えない。とにかく何もできないんだ。水が無いからウンコさえもできないんだ。全ての文明機器は粗大ゴミと化してしまうんだ。
昨今のメディアアートなるもの、電気が無きゃゴミにもならないし屁にも糞にもならない! 電気が無きゃ成立しないアートが、今や世界を席巻しているんだよ。もし地球的規模で天変地異があって、電気が使えない状況になったら、世の中に優れたアートは無くなっちまうんだぞ。
電気は我々にとって空気のようなものか? 普段はその重要性に気付かないけど、無くなったら死んじゃう?
いや、基本的に空気とは違うんだ。電気は文明が生み作り出してるんだから、強いて言えば宗教。一神教の神様の様なものなのだ。しかるに我々は完璧に洗脳された信者なんだ。発電所は最も神聖な場所・モスクで、電力会社は神社とか教会とか寺、電力会社の社員は、お坊さんや神主さんや牧師さんだ。メディアorビデオアーチストは、さしずめ電気神の宗教画家・仏師・イコン職人かもしれん。
* 8月6日・9日 2002年
2002年に書いたんだけど、今年2003年の8月15日に、同じ見解の番組をNHKでやってたぞ
8月6日と9日、歴史の中で隠蔽されていた一部分が時間の経過と共に、暴き明かされて行く。
広島・長崎への原子爆弾投下に至ったた大国・権力者の思考と意識。大規模な人体実験を思わせる、投下後のデーター収集の執拗さ。そのデーターの隠蔽工作。報道の管制もその一つだ。
被爆の悲惨さを被験させられた民族として語り継がなければならないのは当然だが、それがどんなに悲惨かを言葉で語るのは限界がある。生々しいフィルム映像を、視覚体験として見聞きできる様になったのは近年の事である。
人々の集結する都市への2回にわたる原爆投下と、それに至った権力者(加害者)の残忍な意識とが見え隠れするのだが、問題は大国の正義の名の下に、それらのデーターや映像が、ひたすらに隠され続けて来た事にある。勝てば官軍とはよく言ったもので、権力のコントロールによって、この超大量虐殺を図った意識と、それを裏付けるデーターの隠蔽とが、自国の中で正当化され正義になってしまうことなのだ。
戦争という狂気の中で起こった事の怨念や遺恨から、時代の生き方を見るのは間違った方向に向くから、冷静に世界を見ようとするのだが、許しがたきは、未だに大国の中で、原爆投下の理論と正義意識が継承され続けているという所にある。むしろその残忍さを擁護する方向で理論展開され、今や世界の正義として君臨しようとしていることにあるのだ。
* TV美術館 2002年
テレビは時代の中で最強のメディアとして、今も多くの情報を提供している。
彫刻を志している関係で、NHKの日曜美術館を見ることがあるのだが、美術に関してのジャンルを問わない分かり易い解説と映像に、思わず引き込まれる事もある。
先日も一作家を取り上げてのプログラムと、北海道で開催されている野外美術展の紹介が目を引いた。
作家のコンセプトや作品の成り立ちのナレーションを聞いていて、思わず鳥肌が立つ事がある。ゾーッとしてしまうのだ。歯の浮きそうな事を真面目に、さも真実の如くに何の躊躇いもなく喋られると、体中に悪寒が走ってしまうから夏のプログラムとしては最適なのかも知れない。
懇切丁寧な解説や、作品の見方・見られ方を断定的に提供する事が、そもそもの過ぎたる事なのかも知れないが、真面目に一点一点の解説を聞いていると、作り手は偽善者じゃないのかと疑ってしまうのだ。
確かに名だたる作家の中には、それと思われる輩がいる。環境の中で自作の見方感じ方を一方的に強要するやり方はまだ良しとして、情報や文献上の理解で、さも長い間、経験したかの如くに語る者、図面や簡単な模型ひいてはコンセプトを示しただけで、制作は他者に委ね、表では総てが作家の行為と唱える者等、様々なパターンがあるのだ。
メディアのサングラスを通過してしまうと、すなわち番組を組み立てるディレクターの眼鏡の中では、糞も味噌も一緒なのかもしれない。
情報は真実のみにあらず・・・・、さてさて誰が偽善者なのかなあ。
* 汗と埃 2002年
この4月から二つの大学で非常勤の講師を勤めている。
授業の重なる週は4日間も大学に行かなければならないという強行軍だ。
一つは工芸学科で、其々の1〜2年生に、彫刻について実技の講義を担当する。でも彫刻の作り方やテクニックを教えつつもりはないから、自己表現・立体表現の基本として、一人一人の自己認識の原点を見つけ出す試みをやっている。
もう一つは、週3日間2年生の石の実技授業を見ている。午前中で私の授業は終わるのだが、午後から茨城に飛んで帰るわけにもいかないので、石の工房で自分の制作をする事にした。
この暑さの中で、防塵ヘルメットを被り大汗をかき、音と埃にまみれて石と戦っていたら、午後の授業が終わった学生が、自分の石を進めたいとやって来た。
普段から真面目に制作に取り組んでる学生だ。突如彼女が不思議そうに聞いて来るのだ。
「先生、何やってんの?」
「自分の作品を作ってんだよ」と私。
「え〜〜、うそ〜、まじで〜、いやだ〜」「何時もそうやって作ってんの〜」「ショック〜、いやだ〜」
その会話の意外性に驚愕して、
「おお・・・お前なー彫刻つーのは、こうやって大汗かきながら、埃にまみれて、悩みながら作るんだぞ!」「モノを作り出すこと、彫刻を作るつーのは大変な作業なんだぞ!」「分かってんのか!」と、私。
「え〜、ウソ〜、先生が自分で彫刻作ってるなんて、ショック〜」
そんなやりとりが続いた後で、彫刻と社会と作家とに付いて半時ほど真剣に説教したのだった。
この学生も、展覧会に出品した私の作品を見ているはずだけど、どうやら大学の先生はお弟子さんを使って、パパッとカッコヨク彫刻を作るものだと思ってたらしい。作家は何時も奇麗な服を着て、颯爽としているものだと思い込んでたらしいのだ。
あー何という誤解! それにしても、こりゃ驚き嘆いてる場合じゃねーぞ。
作家として、自作と関る事の重要性、物(現物)に関る難儀さを伝えなきゃいかんのだ。
リアリティの欠如した表装的張りぼて文化の中で生まれ育った今の若者に、実在の重さと重要性・それに関る事の大変さを伝えなきゃ。
日常生活の全てが簡単に手に入り、全ての物の価値指数が低下する時代の中にあって、メディアの台頭が必然的な社会の進化として享受される時代、張りぼての雑誌や映像が、現実よりも価値を持つ時代を、ただ単に追従的に批判するのは簡単なんだけど、その現実の大切さを如何に体得させるのかが難しいのだ。
大海原から一匹の魚を釣り上げ、自らがその命を奪い食する事よりも、スーパーに奇麗な包装で並べられた魚と、そのレシピが価値を持つ時代に育った若者に、釣り竿と鉤と出刃包丁を持たせて、一匹の魚で一日のひもじさを凌ぐ事の大変さをどうやって説くんだ。
「うそ〜、まじで〜、魚釣りなんていやだ〜、魚なんてスーパーで売ってるも〜ん」という連中に、どうやって教えるよ。ましてや彼・彼女たちの親も、とっぷりとこの時代の中に浸かってて・・・、いや、親達こそがこの時代を作り上げた張本人で、未だに倒錯した価値基準に何の疑問を持ってない連中なんだもんな。親の教育は難しいぞ。
素朴な疑問をぶつけて来た彼女は今、大汗をかきながら、とてもいい作品を作っている。
* 平和ボケ 2001年
NHKの深夜放送で若者の討論会「真剣10代しゃべり場」を見た。テーマは「戦争ってなくせるものなの」だったと思う。
「文化の違いから戦争が起こる」とか、「国と国との話し合いで戦争は回避できる」とか、「日本は平和だから戦争に付いて考えたことがなくてピンと来ない」(正直な意見だと思うけど)とか、とにかく未熟な意見の飛び交う中、アドバイザーとして成人のシナリオライター氏がコメントを挟んでいた。
平和ボケの中で育った若者の幼稚さを露呈させる番組だったのだが、このライター氏のコメントもオブラードに包んだ様なものの言い方と、的を外れた意見で、聞いてて腹が立って来た。いやむしろ、戦争に対するコメンテーターとしての思考の甘さを露呈させるものだったのかも知れない。
思わずNHKにメールを書きそうになったのだが、これが再放送だと知って止めた。
「戦争は、お互いの文化の違いや考え方の違いで起る訳だから、話し合いで解決できるはずだ」と言う若者が多かったのだが、もちろん思考の違いで起ると言うのは間違いじゃないとは思う。でもその違いとは何処に起因してるかを掘り下げて行かないと、上辺だけの話で終わってしまうのだ。ましてや戦争が文化の違いで起るわきゃない。
確かにこの番組は、上辺だけで終わってしまった。
今の平和ぼけした若者に、戦争が何故起るのかを解く事は、一見難しそうに見える。しかし戦争の火種は貴方達個人の日常の些事の中にある事を説明する必要を痛感したのだ。
クラスの中で威張った奴が、自分の利益になることは熱心だけど、面倒な事はしないとか、不利益になる事はしないとか。あいつが俺の彼女にちょっかいを出して来たから、今度は俺がやってやるとか。道を歩いてたら暴走車が車が突っ込んで来て、思わずカッと来て車に石を投げたとか。昔あいつにやられたから、何時かやってやるとか。先生に受けの言い奴にムカ付くとか。奴は何時もナイフを持ってるから、俺は密かにチェーンを持つとか。強い者や成績のいい奴はナイフを持ってもいいけど、成績の悪い奴がナイフを持つことはダメだと言ってる奴がいるとか。様々な日常の些事の中に戦争の火種がある事を伝えないと、争い事の本質は見えて来ない。そんな日常の些細な不満や怨恨や利害関係が、集団や民族・国家の中で鬱積して行くと戦争になる。
日常生活の中で感情をコントロールできない者や、自らの言動が他者を傷つけている事を察知できない者が、大集団の感情の縺れをコントロール出来るわきゃないのだ。今の日本なんて、一寸の火種さえありゃ直に戦争に突っ込んじゃう可能性を其々が持ってる事を知らなきゃならない。戦争は遠い国の話じゃなくて、我々の日々の中にある。
コメンテーターには、そこまで言って欲しかったし、そこを言及しないと本質が見えて来ないのだ。テロやテロとの戦も含めて、中東の戦争や民族間の争いも、遣り場の無い怨念を個々の中でコントロールする事から始めないと、解決の糸口は無い。正義と主我とは表裏一体である事に気付かない限り、戦争の火種も尽きない事を知らなきゃ。
それらの争い事を対岸の火事と、のんびり眺めている若者を抱えたこの国が、一番危険を孕んでいるのだ。
話は少し脇道に逸れるが、流行やファッションに敏感な者ほど、マインドコントロールされ易いことも列記しなきゃな。流行を追う事が文化やアートだと言い切る一部のアーチスト達が居て、その浅薄な思考が、目新しさという事で世の中に受入れられていることを見ると、益々この国に未来は無いのかも。
* ヒューマニズと、デモ暗し 2001年
科学者の一般常識として、人類の安住できる将来は短くて数年らしい。
もちろん、全ての人間が死に瀕しているという事じゃなくて、現状での生活環境の維持が不可能になって、歯止めの効かない急激な変動が起こり、その変動に今の文明をしても太刀打ちできないという理解だが、何れにしても、遅かれ早かれ間違いなく起る事なのだ。あとは時間の問題で、短くて後数年という単位には驚かされる。しかもそれが科学者の一般常識というから尚更だ。
そんな切迫した状況下で、未だに経済効率を優先する大国のやり方に腹立たしさを覚え、背後にヒタヒタと忍び寄る危機的な事柄に目を背ける国家国民に痴呆性さえ感じるのだ。
若者がメディアに上気する現象も、近い将来フィジカルな状況の悪化を無意識に察知しての事かも知れない。
経済至上主義が社会構造の背後にある限り、崩壊に向かう迷宮からは抜け出せない。
人類がヒューマニズムを原点とし、デモクラシーを体制の基本に据えるのは良しとして、そのパラダイムの背後にある矛盾からは、簡単にに抜け出せない事を知らなきゃならない。
1人が生命を維持するのに1日最低1000キロカロリー必要だとして、60億人で60億メガカロリー1日で消費する。1年に22億ギガカロリー必要なんだ。それを何処から調達するんだ。
家を作るために資源を消費し、文明生活をするために石油を燃やして、衣食住足りて裕福な生活をする。そんな連中が難民救済を唱えても偽善にしか見えない。
60億人が文明にあやかって裕福な生活をする資源が、何処に在るというんだ。もちろん難民や飢える人達を一人でも多く救済しなきゃならないのだが、それが偽善にならないために、自分達の立ってるコスモポリタンな状況をちゃんと把握する必要と、それに対処する行動も不可欠なのだ。デモクラシーでも暗しにならないために、ヒューマニズムが立脚する土壌と土台を、今一度見直す事が急務な気がしてならない。
* 雨引の桜 2001年
3月31日、かつての雨引駅のプラットフォームで花見をやった。
参加者は野田裕示、細谷進、村井進吾それに私の4人、女性がいなかったのが少々残念だけど、村井氏の手作りちらし寿司、それに刺し身と枝豆、ビール・ワイン・焼酎というシンプルなものだったが、暖かな花曇りという最高の天気に恵まれて、久々にノンビリと昼間っから酒カッ食らって、側に生えている野蒜も具にしながら最高の日曜日だった。
それにしても雨引駅と雨引小学校の桜の見事さには、毎年感動している。都市だったら人が溢れてる状況なんだろうけど、散歩の人がちらほらで実に贅沢な事だ。
やっぱり住むのは田舎がいい。四季折々の風情に囲まれて、自然を感じながらの生活は、何にも増して貴重な事だと思っている。人はみな都市に集まる方がいいのかも知れない。その分田舎の自然は保たれるしノンビリとした風情も保たれるのだ。原発やゴミ処理場も都市の真っ只中に作って、自分達の出したゴミや必要なエネルギーは自分達で処理する。そしてみんな仲良くワイワイと暮らすのが問題なくていいのだ。みんな深層心理の中ではワイワイゴミゴミガヤガヤを欲しているのだ。東洋人はその特質が顕著で、アジアの各都市状況を見ると一目瞭然。東洋人は混沌の中に身を置く事が大好きで集団を作る事が大好きなのだ。最初っからそんな遺伝子配列になってるんで、変に西洋人の美意識を後書きしない方がいい。