私の制作が佳境にさしかかった頃、「UNITの石の中に折り鶴を埋めたい、鶴の折り方を教えてくれ」と、制作現場に訪ねて来た。一枚の手紙と、そのコピーを携えていて、それを使って鶴を折りたいというのだ。制作を中断し、木陰の下で折り鶴を始めた。勿論彼は広島のサダコの物語を知っているし、私が作っているUNITのコンセプトも分かっている。 彼は折り紙の途中で、手紙の由来に付いてボソボソと話し始めた。数年前、家庭内のイザコザが発端で、娘が自室に閉じこもった事があったようだ。彼はドアを開けようとしない娘の部屋の前で、自分が貴方(娘)を如何に愛してるかを告げ、自分の命が尽きるまで貴方を愛し、守り続ける。その事だけは分かって欲しいと独り言の様に語ったらしい。翌朝、娘からの1枚の手紙がドアの下に差し出してあるのを見付けた。「私もお父さんを心から愛しています」と、書かれた手紙。その後その手紙は、彼のお守りになった。 2枚の鶴は折り上がって、私はコピーの鶴を石の中に埋めるのだと思ったのだが、でも彼は直筆の手紙の鶴を私に差し出したのだ。本当にこれを埋めていいのか?と聞いたのだが、彼はそうしたいと言った。そして数日後、彼のお守りだった一枚の手紙も、他の人達の鶴と一緒に石の中に生め込まれたのだ。その一週間後、娘が夏期休暇で彼の下に帰って来た。可愛い子だ。そして「Volume of Lives - Germany」亀プロジェクトのコラボレーターを申し込んで来たのだ。
申し込んで来た全てのコラボレーターに、「Volume of Lives - Germany」の石を贈って帰国したのだが、帰国してから彼女からメールが来た。「私が持っている石と、お父さんが持っている石が、ピッタリ噛み合いました。隣の石をお渡しいただいて、感謝しています。5年間、お互いのお守りにします。お気遣い有り難うございました。」という内容だった。私が石をセレクトした時は、帰国前という事もあって、そんな気遣いなんてしてる余裕は全く無かったのだ。バラバラになった石の中から、ただランダムにセレクションしただけ。その事を返信メールに書いた。隣の石だったという事は、貴方達の意思がそうさせたんだと思う。と追加した。
21 倉橋島・音戸町
呉から、IHIの造船所の巨大クレーンやタンカーを垣間見ながら、海沿いに南に下ると、本土と倉橋島を結ぶ音戸大橋に出る。その昔、平清盛が夕日を扇で戻して、一日で切り開いたと言われる「音戸の瀬戸」に架かるループ橋だ。この橋が完成したのは私が小学校の頃で、かれこれ四十数年前になるだろうか、当時の技術の粋を集めて完成したと聞いた橋で、学校の遠足でも数回来た事がある。音戸の瀬戸は幅70メーターほどの狭い海峡で海上交通の要所、大小様々な船が、時を余す暇もなく行き交いしているのだ。その橋を車で渡ると(歩きの場合は、海峡を渡る日本一短い渡船がある。片道70円、これがまた風情があって最高)、音戸町に入る。
瀬戸内の島々は、山と海とがせめぎ合っていて、家を建てられる平地が極端に少ないのだ。音戸町の町並みも、広くない土地を最大限に活用し、家と路地と山とが輻輳しながら成り立っている。俯瞰すると、一見雑然とした家並みなのだが、路地に立ち入ると様相が違う。長年の経験と知恵が作り出した空間の合理性と美しさを感じるのである。机上的に作り出された昨今の新都市には無い、日本的風情と東洋的神秘的な美しさが、そこにはあるのだ。それは、ある意味で複雑な蟻の巣に似ている。巣の複雑な迷路も、個々の蟻の行動法則の下に見ると、整然とした合理的な空間作りなのである。東洋の街作りは、獣道ならぬ住民一人一人の踏み分け道が基本なのだ。
外部者にとっては難解な構図が、そこに住む個々の人にとって、非常に合理的に成立している。長い時間と、共同生活の知恵とマナー(文化)が在って、暗黙の法則として機能している様だ。
日本の新しい町作りや環境デザインは今、大きな岐路に立っていると思われるのだが、西洋的机上論で、日本の文化や景観は作り出せない。その地の歴史や営みの中に、暗黙の法則を見付け出し、そこから学ぶべきだと思っている。
この夏に、音戸町で倉橋ビエンナーレの第2回が開催される。美術(アート)がこの地で何を学び、どういう提言をするか、私も含めてワクワク楽しみなのだが・・・。
こりゃ難しい作業になりそうだ。
17 フィールドアート
'03年12月8日、雨引の里の出品作家の村上さんのスタジオで、毎年恒例の新蕎麦会があった。
ここ数年、新蕎麦が楽しみで、万難を排して参加している。今年の新メニューは鴨南蛮が追加されて、食材の選定に超拘りの会らしく、最高の旨さだった。
村上さんのスタジオの前には広い田圃が広がっている。冬の田圃ほど寒々しいものはない。毎年荒涼とした田圃を視覚に入れながら新蕎麦を楽しむのも一興なのだが、今年は趣が違った。田圃一面にインスタレーションアートが展開していたのだ。籾殻をいっぱい詰めたビニール袋の上に土管が数本のっかたオブジェがほぼ等間隔に配置してある。
作者は不詳、いや何処かの農地改良会社のおじさん達だと思うのだが、芸術振興のために展開したものではなくて、田圃の水捌け改良工事のために材料を配置したのだ。その目的こそ違え、美しく面白い事には違いない。アートは作り出す人間の意識が重要であると事あるごとに語られるのだが、要は見る人、発見する人間の美意識も不可欠に重要なのだ。
15 スモーク
'03年11月23日、数年ぶりに管理釣り場で鱒釣りを楽しんだ。と言っても、茨城県の北部(高萩)で、福島県に近い山奥だから、とにかく寒かった。午前中で10匹ほど釣り上げたのだが、寒さに堪え兼ねて早々に引き上げたのだ。数年前までは釣り場が閉まるまで頑張ったのだが、このところ根性無しになってしまった。
それでも家に着いたら夕方の6時過ぎ、早速に釣魚のスモークの準備に取り掛かる。普通ならそミュール液(魚を漬け込む液で、塩と香辛料を溶かした液)を作って、半日程漬け込んでから塩抜きと乾燥を一日弱やるんだが、そんな事してたら連休中にスモークが出来ない。雨引の里と彫刻の参加作家・藤本さん秘伝の方法をとる事にした。
魚を捌いたら即、塩と香辛料を塗して乾燥にかかるのだ。この時に気を付けなきゃならない事は、使用する塩と胡椒なんだ。そこら辺のしょっぱいだけの普通の塩は駄目、ミネラルをふんだんに含んだ甘い塩じゃないと上手く行かないのだ。ノルウェー産の塩がベストらしいんだが、手に入らないんで、中国産の岩塩を使う。胡椒は黒胡椒で挽きたての荒挽き。その他の香辛料は、フィーリングに合わせて適当に使う。
次の日の午後3時まで乾燥させて、スモークに取り掛かる。桜とヒッコリーを使ったんだが、時間を短縮するために、少しだけ温燻(少し熱を掛けながら燻蒸する)にする。午後3時半から8時まで4時間半ほど燻蒸した。今にも雨が落ちて来そうな天気の中で、とにかく時間の短縮と、なおかつ美味いスモークを作ることを心掛けて、できた物が写真の鱒の燻製だ。
これが美味いのなんのって、ほっぺたが幾つあっても足りない。
魚を家に持って帰ってから一日ほど掛かるけど、最高の鱒の食べ方なんだ。今日早速、大雨の中を、友達の所まで持って行ってやった。
13 デトレフ
デトレフはレオナルド・ダ・ビンチの自画像を現代風にちょっと若くしたような風貌だ。遠視の眼鏡を掛けている。優しく柔らかい声をしていて、噛み締めるようにゆっくりと喋る。彼と話していると、心の奥にある警戒心を司る部分が緩んで来る。
彼は内科の医者なのだ。私と同年代で、インターナショナルな平和主義者、国境なき医師団としてアフガンやイラクにも行ったらしいし。ビットブルグ界隈では、知る人ぞ知る名医らしいのだ。
滞在するホテルの対面に住んでいる彼に、到着初日に始めて会った。歯科医の奥さん(フランス人)と今年の初めに離婚したらしく、今は一人で住んでいるらしい。彼には二人の子供が居て、一人は独立し、妹はフランスの大学に在学していて離婚した奥さんと一緒に居るとの事だった。何となく私と似通った境遇で、何となく親近感を覚えたのだ。
私の制作が佳境にさしかかった頃、「UNITの石の中に折り鶴を埋めたい、鶴の折り方を教えてくれ」と、制作現場に訪ねて来た。一枚の手紙と、そのコピーを携えていて、それを使って鶴を折りたいというのだ。制作を中断し、木陰の下で折り鶴を始めた。勿論彼は広島のサダコの物語を知っているし、私が作っているUNITのコンセプトも分かっている。
彼は折り紙の途中で、手紙の由来に付いてボソボソと話し始めた。数年前、家庭内のイザコザが発端で、娘が自室に閉じこもった事があったようだ。彼はドアを開けようとしない娘の部屋の前で、自分が貴方(娘)を如何に愛してるかを告げ、自分の命が尽きるまで貴方を愛し、守り続ける。その事だけは分かって欲しいと独り言の様に語ったらしい。翌朝、娘からの1枚の手紙がドアの下に差し出してあるのを見付けた。「私もお父さんを心から愛しています」と、書かれた手紙。その後その手紙は、彼のお守りになった。
2枚の鶴は折り上がって、私はコピーの鶴を石の中に埋めるのだと思ったのだが、でも彼は直筆の手紙の鶴を私に差し出したのだ。本当にこれを埋めていいのか?と聞いたのだが、彼はそうしたいと言った。そして数日後、彼のお守りだった一枚の手紙も、他の人達の鶴と一緒に石の中に生め込まれたのだ。その一週間後、娘が夏期休暇で彼の下に帰って来た。可愛い子だ。そして「Volume of Lives - Germany」亀プロジェクトのコラボレーターを申し込んで来たのだ。
申し込んで来た全てのコラボレーターに、「Volume of Lives - Germany」の石を贈って帰国したのだが、帰国してから彼女からメールが来た。「私が持っている石と、お父さんが持っている石が、ピッタリ噛み合いました。隣の石をお渡しいただいて、感謝しています。5年間、お互いのお守りにします。お気遣い有り難うございました。」という内容だった。私が石をセレクトした時は、帰国前という事もあって、そんな気遣いなんてしてる余裕は全く無かったのだ。バラバラになった石の中から、ただランダムにセレクションしただけ。その事を返信メールに書いた。隣の石だったという事は、貴方達の意思がそうさせたんだと思う。と追加した。
12 フィッシング
2003・7月 - ドイツでフィッシング・ライセンスを手に入れて、フライフィッシングに行った。
ここ日本じゃ、さして驚く程の事じゃないけど、所変われば事情も替わる、ドイツではフィッシング・ライセンスの取得が非常に困難で、自国人もライセンス取得のために半年間学校に通い、その後の試験で合格して初めて手にできる代物なのだ。釣り師の増加が川の健康を損ねる事態を危惧する一方で、ドイツは私有河川が多い事も理由の一つに上げられるのかも知れない。日本の河川は全て国有なのだが、ドイツでは自分の土地に流れている川は自分の持ち物なのだ。という事で、河川管理や水質管理そこにいる魚の管理も所有者の義務なのである。その川に入るためには、国が発行したフィッシングライセンスと、所有者に入川料を支払ったというチケットが必要で、料金は日釣りで12〜15ユーロかな。決して高くはない。
どういう風の吹き回しか、そんな難関をアッという間にパスして、はれてkyll-riverに自作のフライを浮かべる事になったのだから、彫刻シンポジウムで1ヶ月半の訪独したことを鑑みると、これは快挙としか言いようがないのだ。勿論、永久ライセンスだから、一生涯使えるんだ。ライセンスのために、袖の下とか特別なアップルポリッシュをした訳じゃないんだが、簡単に言うと、河川管理の親分と酒を飲んで、釣りの話に花が咲いて、それでは一緒に釣りに行こうという話になった。釣り師には国境は無い。
勿論私がアイフル地方の文化高揚のために、はるばる日本から訪れていると言う特別な理由があった事は推察出来る。
左の写真は、釣行の前に自分のフライを巻いているところで、ライセンス取得後の個人的な試験だったんじゃないかと、今は思っている。勿論、完璧な14番16番18番のエルクヘアカディスとパラシュートを2本ずつ巻いた。
日を分けて2回ほど釣行したのだが、2回ともキルリバーに行く。ワインで有名なモーゼルリバーの支流で、アイフル地方の丘陵地帯を緩やかに流れている川の一つである。透明度は雷雨のせいもあって、8割というところだが、とにかく魚影が濃いのだ。夕方4時半頃から10時半頃まで(日が長いので11時頃までは明るい)の時間帯を狙って川に入る。7時を過ぎると川虫のハッチや産卵が始まり、それを狙ったようにトラウトがライズするのだ。私が作ったフライが実力を発揮する時間帯である。
ドイツで初めて釣ったのは、シュナイダーというハヤ系統?になるのか、とにかく5cm程の小さい魚で、やたらと小賢しく食って来る。30センチオーバーが持ち帰りの基準らしいのだが、ドイツでの最初の釣果が5cmのシュナイダーじゃ、日本のフライフィッシャーとしては、洒落にならないんで密かにリリースしようとしたら、狙ったようにシャッターを切られてしまった。
釣果は、2日間で23cmのブラウントラウト2匹(即リリース)、32cmのブラウンと33cmのレインボー(夜、バター焼きで食べた、美味かった)。
先日、一緒に行ったTobiasちゃんから、48cmのブラウンの写真を送って来た。こんなのが直そこの川に居るんだよ。
今度は彫刻の仕事じゃなくて、釣りのためにドイツに行くことにするのだ。
6 my favorite place
私の大好きな場所。心の揺り篭のような空間。
仕事場から車で北に50分走ると、この空間に辿り着く。私のはるかな記憶の中の時間が今だに流れている場所だ。
山間の田舎道を走りながらロッドスチュアートのバラードを聞き、心の奥が暖まって来るのを覚えながら、この河原に入る。視界の中に人工物は無い。そして誰もいない河原で一人石コロと遊びながら、日がな一日ボーッと過ごしたいと思う。暖かくなると、ここで泳いだり魚釣りをしたりカヌーに乗ったりもするのだが、今は緩やかな水の流れと、たゆたう時間の中に身を沈めている。
黄昏が迫る頃、遠く夕餉の煙のたなびきを目指して、一面の月見草の中を友と歩いた時代を思い出しながら、来た道を引き返す。エリック・クラプトンのダニーボーイが静かに流れている。
23. 春症候群
(2004.春)、どこもかしこもウイルスだらけだ。鳥インフルエンザやら、コンピューターウイルスやら、実に広範囲に身の回りを侵蝕いている。
鳥インフルエンザが家禽類に対して猛毒なウイルスであるのと同時に、変異して人に猛毒な新種のウイルスになる可能性がある。住民意識の低さと、厚生省・農産省の対応ののろさ(昔から世の中のスピードについて行けない事では定評がある)で、鶏が感染しても死ぬ前に肉にすれば損は出ないという経済本位主義の経営者がいるもんだから、歯止めが掛からない。ウイルスの浸蝕感染速度よりも人間の脳の対応速度の方がトロイんだからウイルスに勝てないのだ。いやヒョッとして勝とうとしないのかも知れない?。何処かで誰かが鳥インフルエンザで徳をする?
このところウイルスメールも急増している。一日に平均3-4通はウイルスメールが来る。こいつに感染するとコンピューターの中で変異して、ウイルスが自分の分身を勝手にインターネットで送り始めたり、コンピューターのプライベイト情報を勝手に発信するらしい。私はマイノリティーのMac派だから早々は感染しないらしいのだが、マジョリティー派は最新のワクチンやサーバーでのウイルスチェックがないと大変な事になる。それにしてもサーバーでのウイルスチェックが有料だったりワクチンが高価だったり。きょうびの経営者はウイルスまで商売にしちゃう見上げた根性の持ち主なのだ。考えてみたらメールチェックするだけで1サーバーで年間億単位の商売になる。シマンテック等のワクチン製造メーカーはそんな比じゃないか。商売になるからいつまで経っても新種のウイルスが出るし、新種のウイルスが出る事でみんなが儲かる。戦争まで商売にしちゃうんだから、何もかも経済至上主義なのだ。
全てが平穏で平和になると誰も儲る奴がいないの?かも知れない。
こんな事あえて書くほどのこっちゃないか。今や衆知の事。
春になり木の芽が芽吹き総てがフレッシュに生き生きしてくると、どういう訳か落ち込んだり僻みっぽくなったりする。何故か知らないけど、何もかも生活の総てに腹立って疑ってみたくなるのだ。これは春症候群・スプリングシンドローム。
14. 海
今(03年10月30日)、三重県伊勢の五ヶ所湾に来ている。個展の設置とオープニングのために数日滞在しているのだが、設置も終わって久しぶりに自由時間が取れた。
目の前に海が広がっていて、こんな時にやりたい事と言ったら一つしかない。何年ぶりかに、のんびりと海に釣り糸をたれる・・・と言いたいのだが、実はそんなにゆったりと太公望してる訳じゃない。魚の食えないプラスチックの塊に針の付いているルアーというやつを、投げて引いて投げて引いてを繰り返すのだ。釣り針に鳥の羽根を自分で付けて小魚に見せたものを沈めては浮かせて引いてくる事もする。側で餌釣りの人が小魚をバサバサ上げているのを横目に、黙々と投げは引いてくる作業を繰り返すだけ。本当は釣れやしないんだ。諦めや負け惜しみで言ってんじゃなくて、魚を釣り上げる事が目的じゃないんだ。細い糸の先に付けた疑似餌の動きに神経を集中して、見えない海中をまさぐる事、細い糸と竿をを介しながら、直に海を感じる事が楽しいんだ。
何百回何千回に一回、たまたま貪欲に食い気のたった大物が疑似餌に食いつく事がある、その時はアドレナリンをガンガンに放出させながら遠慮無く釣り上げるのだが、その事だけを期待してたんじゃ何時も敗北感しか残らない。釣れても釣れなくても、海を感じる事が最高の骨休めなんだ。
5. リセット
年初めに、裁判所から査定官一行の来訪を受け、私が借りている住居兼オフィスが、競売になるという話を聞かされたのです。薄々は感じていたのですが、たまたま2年ごとの契約更新と重なり、もはや居座る権利の無い事も聞いて、慌てふためいての新居探し、それに続いての引っ越しと、慌ただしい一ヶ月でした。
正直言って、私は引っ越しが大嫌いなのです。仕舞ってある物を根刮ぎ引っ張り出して、何が何処に在るのか分かんなくなるカオス的状況の中を、トラックに積み込んでまた下ろす。それにエネルギーを消費してしまって、新居では半年くらい段ボールに詰まったままの荷物が、ゴロゴロする訳です。
銀行への貯蓄は超苦手なのですが、長年溜め込んだ、本やら材料やら写真資料やらカタログやらが、次から次へと在るは在るは。ちゃんと仕分けしてたら、それだけで2ヶ月は浸かってしまいそうです。
古いものは見ない様にして、思い切って身辺整理をする。好む好まないに関らず、心身共に完璧なリセットです。2月の14日奇しくもバレンタインデーの日に、引っ越しの荷物の中にドンペリを一本見付けて、新たな再出発のために密かに乾杯したのでした。
お近くにお出での節は、気軽にお立ち寄り下さい。広い空を見ながらバーベキュウなんて悪くないかも、と思っています。
新居の住所は、上記の[プロフィール]に載せています。
秋山氏と問い
彼は声がいいのだ。バリーホワイトも真っ青になるバリトンで、ゆったりと喋られると、言葉が耳から脳髄を経由しないで心臓に向けてズンズンと響く。
秋山さんと知り合ったのは私が28歳の頃である。
声のいい秋山さん?いったい誰?と思われるだろうが、私のアートの師匠なのだ。
同郷にして、彫刻家で、同じ一人っ子の我儘さを持ってて、ドイツのカールスルーエ国立アカデミーの教授。本当は秋山先生と呼ばなくちゃならないんだけど、昔からの彼の口癖で「先生と呼ばれる程の馬鹿じゃなし」を、耳にタコができるほど聞かされたもんで、秋山さんと呼んでいる。1989年諏訪湖のシンポジウムで初めて会って、それ以後の長い付き合いである。
二十数年前、茨城に制作場所を求めて初めて来訪したのも秋山さんと一緒だった。2〜3ヶ月旅館に逗留して大きな作品の制作を手伝ったのだが、とにかく一日中ビールと酒を飲みながら、制作もそこそこに色んな話をしたのを覚えている。普通なら1ヶ月で終わる制作も2ヶ月半掛かってしまった。私はアシスタントだからそのスタイルに文句は言わないのだ。
夜長の雑談の中で、今もハッキリと覚えている設問がある。当時秋山さんに出題された問いを、今でも学生に出題しているのだが、情報が主導権を握る世の中にあって、益々現実味を帯びた問いになって来た。
問題
原点ページ(ひらめき石)の?石をご覧下さい。
貧すれば急須
大学の授業で河原の石を使う事にした。石の採集に出掛けたのは、前項の「大好きな場所」である。
持ち帰った大小の石コロを選定していた時、突然急須の事を思い出だした。
石コロと急須、写真を見ていただければ、その結び付きがお分かりになると思うのだが、その昔17〜18年前だったろうか、茨城の石屋さんのパーティーで、陶芸家・上条富子さんにお会いした。酒が進んで、会話の打ち解けた席で上条さんに注文したのだ。「私の使う急須を作って下さい。幾らかかっても構いません。」今思うと冷や汗が出て来る、30そこそこの若僧が大胆な注文をしたのだ。
それから4〜5年、上条さんからは何の音沙汰も無いまま、頼んだ事も記憶の中から消え去った頃、石の様な急須が届いた。箱の中の手紙に、何回も作り直された事が書かれていた。
早速、食卓で使う事を薦めたのだが、すこぶる評判が悪い。使い辛いのだ。お茶の葉を入れる口は小さくできていて、神経を使わないと葉が溢れてしまう。蓋は玉石が乗っかってる様なもので、両手でお茶を注がないとコロッと落っこちてしまう。気付いた時には押し入れの奥深くに仕舞い込まれて、記憶からも消えてしまった。
先日、十数年ぶりに押入れの中から見つけ出して使ってみた。確かに使い辛いのだが、その使い辛さが何とも言えずいいのだ。神経を集中してお茶の葉を入れ、器の中でお茶の葉が蒸されているのを感知しながら、両手で湯呑みに注ぐ。こりゃ儀式だ。
お茶は安物なのだが、そんなの気にならない。私だけの密かなティーセレモニーになった。
この歳になってやっと陶芸家の真意が掴めた気がしている。
「貧すれば窮す」もはや古い。これからは「貧すれば急須」なのだ。貧しい時にこそ、いい物を持つ、心と時間が豊かになるのだ。
上条さん有り難う。
花粉症と反面教師
2003年3月3日。長年茨城に住んでいて、杉の木を気にした事は無かったのだが、よ〜く観察してみたら、辺りに杉林が点在していて、この時期、林は淡黄色に霞んでいる。
全く突然に、昨日から花粉症になった。目の回りが浮腫んで、涙は止まらないし、鼻水もクシャミも止まらない。風邪の初期症状かなと思ったのだが、今日の夕方からの雨が激しく降り始めた頃から、症状が治まって来たのだ。唯唯愕然としてしまった。自分はアレルギーとは無縁の人間だと信じていたのだけれど、ついに茨城の淡黄色に侵されてしまったのか。思い起こすに、一昨日作った、ちらし寿司の酢が少しキツかったせいか?ジョイフル本田(do it yourselfの店)のレジに並んでた女性の甘い香水の臭いか?何て色々考えて見たけど、学術的に解明されていないらしいから、身に降った災難を受忍するしかない。
聞く所によると、現代人のストレスがアレルギーの引き金に関っているらしいんだ。なーるほどと思う節が有るし、何とかしたいんだけど、こればかりは自分じゃどうしようもないよな。その事とは別に、この一ヶ月は個展を目の前にして、突然の引越しもあったし、横浜ポートサイドの作品も迫って来ているし、6月から3ヶ月弱日本を空けることに伴って、8月の後半から11月に架けての、個展を含めて三つの大きな展覧会の作品も6月までに目処を付けるべく動かなきゃならなくなったんだ。
今さら愚痴をこぼしてても仕方ない。一つ一つ、目に涙して鼻に詰め物をして、人生をグラインディングして進めて行く・・・。
そうだ!4月からまた大学の授業が始まるんだった。学生さんごめんなさい。今年は背中を見る事が多いと思うけど、自分なりに勉強するように。基本的にアートは教えられるもんじゃないんだから。
ただ一つ確信を持って言える事は、彫刻は、素材を削るんじゃなくて、命を削るものなんだ。
巣立ち
日曜日ともなると、茨城の真壁・八郷界隈の空は鳥人で混み合っている。
先日の日曜日に鳥人の巣立つ瞬間を見たくて、八郷の山に登った。
急峻な山腹を縫うように走る林道を上り詰めると、飛び込み台のようなステージが3基設えてある場所にたどり着く。付近には20匹前後の鳥人が羽を広げて巣立ちの時を待っていた。
その鳥人の集団に恐る恐る近寄って挨拶を交わし、巣立ち台の側に近寄る許可をもらって、その時を待つことにした。
たなびく薄雲の遥か下方に、青々とした畑と田圃、ゴマ粒のような家々が点在していて、そんな眼下の風景を見下ろすだけで、尾骨の中心辺りがウズウズして来るのだ。
台の側にいた一匹の鳥人がゆっくりと台に上って行く。下方からの向かい風だ。いよいよなのか、側で見ている俺が何故か汗ばんで来る。台の上でしばしの沈黙があってから、唐突に辺りの緊張を突き破るような「行きます」という声を残して、台上の鳥人は断崖に向かって走り出した。ヤバい!と思った瞬間、鳥人の足がフワリと風に乗って浮き上がる・・・・。
一瞬にして巣立ってしまった。そして、もはや鳥人の足の下には、彼の体重を支える地上は無い。完璧に鳥になったのだ!
彼は背中に付いている羽をコントロールしながら、雄大に大空を上って行く。
その飛行を目で追いながら、やってみたいと思った。でも私にはできないとも思った。崖に向かって飛び出す勇気はない。
自分の背後の羽で大空に舞い上がりたい。だけどそのためには巣立ちの儀式と、断崖にこの身を投げ出す勇気が要るのだ。
将来、自分の人生を諦めた時、ここに来て思いっきり飛ぼう。子供の頃見た夢のように、自分の羽で大空に舞上がって、眼下のパノラマを眺めながら、上昇気流を掴んで日がな一日悠然と飛んでみたい。
でもオシッコがしたくなったらどうするんだ?? なんて愚問が頭を霞めた瞬間に、意識は地上に戻ってしまった。
倉橋島と野外展 (2002.10月)
この10月5日から広島県の倉橋島倉橋町で開催される、野外展「倉橋アートドキュメント」に出品する事になった。私が受け持っている広島市立大大学院の環境造形演習の教え子(加納君・同大学彫刻科の助手)が企画した展覧会なのだ。
倉橋島はその昔、国会議事堂の石(議員石)を出した石切り場のある所で、今も石材の産地として名を馳せている。倉橋町は昔からの漁師町と瀬戸内海に漕ぎ出す和船を造っていた町で、日本最古の西欧式のドック跡もある、海縁の街なのだ。この夏に何回か倉橋町に足を運ぶようになって、島の素朴な生活と、街の美しさに惚れ込んでしまった。飾気の無い家並みの中を、二人が肩触れ合わない程度にすれ違える路地が縦横に走っていて、辻辻の家屋は簡素なたたずまいである。土壁が剥き出しになってる倉や、色褪せた板塀や格子戸、坂道の石垣、住む人の絶えた空き家も含めて、どれを取って見ても歴史と風土と生活の作り出した造形の美が続いている。ゴミ一つ落ちていない。街を作っている人達、住んでいる人達の美意識の高さをピリピリと感じるのだ。
この美しい街で、一体何ができるのか?どんな作品がぴったり来るんだろうか。街をさ迷いながら考え込んでしまった。
主役はやはり、倉橋の街並みと住んでいる人達の美意識なのだ。私の作り出したモノはあくまでも脇役でしかない。目立たないこと。過飾にならないこと。街の中で静かに呼吸するもの。私の行為もしくは作品に気付いた時、ふと考えたくなるもの。そんなものを目指し考えている。
「雨引の里と彫刻」も大和村で長年継続している展覧会なのだが、アーティストのエゴが環境を乱さない事。アーティストのコンセプトを押売りしない事。アートが空間の装飾にならないこと。アート(作品)が知ったかぶりしない事等々。最近それらが、日本の風土と現代美術とを繋ぐ重要なファクターの様な気がしてならない。
千葉市美・The ESSENTIAL 展(2002年)
千葉市美のThe ESSENTIAL 展を見た。
茨城の片田舎から千葉市まで、裏道を通って2時間半もかかって辿り着く。わざわざ日時を割いて入館料を払って、ガッカリしたりムカ付いたりする展覧会の多い昨今、久しぶりに気持ちのいい展覧会に出会った気がした。
逢坂卓郎、須田悦弘、大塚聡、渡辺好明の4作家の展覧会なのだが、個々の展示物に付いては、「まあ、そんなもんだろうな」という印象で、ここで特記するほどの深いものは残っていない。それじゃあ何故に気持ち良さと感動を覚えたのか?というと、全体に漂っている空気・空間がとても気持ちいいのだ。美術館という閉鎖されたステージの中で、ゆったりと、しかも緊張感のある空間作りに思わず引き込まれちゃった。
物はそれ自体では存在し得ないし、空間は物が介在しないと認識出来ない。空間と物とが関係性を持って初めて認識が成立する。すなわち一つの空間に一つの物、それが物にとって鑑賞者にとっての理想型なのだが、ここで言うまでもなく、そんな事昔から分かっているんだけど、近年の世知辛い世の中で、そんな贅沢な空間作りは早々出来るもんじゃない。
見終って、個々の作品の印象よりも、そこに漂うガランとした空気を楽しんだのだ。千葉市美の担当諸兄に敬服した展覧会だった。
モノの大小は物理的な大きさじゃない。その物が占有する空間の大きさなのだ。掌に乗っかるような小さなモノが、観念上では一つのビル全体を凌駕するほどの空間を持つ事だって在り得る。
かつて千葉市美の「ミニマル・マキシマル」展や国立国際美術館、栃木県立美術館の「身体のロゴス」展に出品していたカリン・ザンダーの「磨かれた鶏卵」、小さな卵がピカピカに磨いてある作品なのだが、この卵が広い空虚な空間の床にコロンと在るだけで、他には何も要らない。いやあってはいけないのだ。
アーア、そんな作品と空間を作りたいけど、なかなか出来ないんだよな。
親父と俳句
2002年6月17日の早朝、親父は74年の人生にピリオドを打った。
喉頭癌で声を失ってから、新たな生活に踏み出した矢先、1年半も経たないうちの癌の 再発。抗癌剤治療の副作用で、内臓に支障をきたし、1カ月間激痛に苦しみ抜いた揚げ句、脳溢血の追い打ちが加わっての事だった。母からの危篤の知らせで、茨城から広島に飛んで帰ったのだが、私はただ側で見守っただけ。
荒かった呼吸が徐々に緩やかに緩やかに静まって、正確に打ち続けていた鼓動が次第に間を空けて行って、ゆっくりと、とても静かに74年の活動を閉じていった。
彼がまだ若かった頃の一句、通勤径路にあるポプラの大木を詠んだ俳句らしいのだが、数万とある彼の句の中で昔聞いた記憶のある一句が、何故か心に蘇って来た。
「無風には 無風の頻度 ポプラ散る」
風があると多くの葉が風に舞って散って行くし、無風の時も散る時が来たら、やっぱりそれなりに散っていく。当り前の事を詠んだ俳句なのだが・・・・。
親父の散り様は、色づいた葉が大木からそっと離れる時の様に、とても静かだった。
第5回、雨引の里と彫刻・準備会2次会の雑談(4.7.)
会合の後は、いつも大和村在住の村井氏宅で宴会になる。
今回も20代から60代まで30人ほどが参加しての飲み会になった。
展覧会の話、アートの話、世の中の話、異性関係の話しから猥談まで、話題は多岐にわたる。あちこちでの議論が白熱し、全員を取り込んでの大議論に発展する。頭から湯気を出し顔から火を出して、喧嘩もどきの叫声まで飛び交うのだが、さすがに大人でドタバタに発展する事はない。酒と料理と議論とが入り乱れて4〜5時間ほどが過ぎて、腹と頭が一杯になると瞼が弛んでくる。1人2人と横になり始める頃、時として燻っていた議論が再燃して、部分的に激しく燃え上がるのだが、全体に燃え広がるエネルギーは残っていない。
夜中の2時を回った頃から、本格的な深夜の部の始まりである。これがまた壮絶な戦いになるのだ。ガガグガーギギギーゴゴガゴー。みんな其々のレイアウトで市場のマグロになって、無意識の奇声を発している。
今回、フト目を覚ますと目の前に誰かの足があった。一瞬蹴られると思った。寝返りを打ってその足から遠ざかった途端、反対側でガシャンと衝撃音が聞こえた。ストーブが衝撃で自動消火したのだ。
そんなこんなで雨引の5回展は動きだしている。
くぎ煮
岡山の親友から小魚の佃煮を大量に送って来た。
中にあった手紙に、春だからクギ煮を作りました、送ります。と書いてあって、友人の奥さんの名前が記してあった。
仕事場で一人暮らしの私には最高の贈り物で、あっという間にほとんど食べてしまった。
御礼のメールを書いた。その中でクギに付いて聞いてみた。クギというのはこの魚の事ですか? そう言えばこの小魚は釘に似てますねえ。
数日して、奥さんからメールが入って来た。春と言ったらクギ煮、クギ煮と言ったら春でしょ。と書いてあった。
いい奥さんだなと思った。
コケコッコー
夜中の0時45分きっかりに、けたたましく鳴き始める雄鶏がいる。
近所で飼っている鶏のボスらしい。雨の夜も寒い夜も日が長くなっても関係ない、とにかく毎晩午前0時45分から鳴き始めて、夜が明けるまで鳴き止まないのだ。
動物の体内時計の正確さに驚きながら、それにしてもチト早過ぎるんじゃないかい。
私は慣れっこになってるから、田舎の風情として楽しんでいるが、ここに泊った奴は必ずその時の声に耳を取られて、しばらく寝付けないらしい。
ヤマメ(4.14)
今シーズン最初の釣行に、連日の睡眠不足も何のその、睡眠3時間で起床して、福島県の渓流に向かった。例年の様に鉾田さん(私のフライフィッシングの師匠で、石の道具屋さん)と2人、1年ぶりに立つ渓流に胸踊らせながら早春の谷を川上へと進んだ。山は芽吹きが始まったばかりだ。
20番の小さなパラシュート(フライの種類)から始めてみる。朝の8時過ぎまでの2時間の間に5〜6回水面が割れたのだが、感覚が鈍ったのか食いが浅いのか、さっぱりアタリが取れない。50歳過ぎると視覚も鈍り遠く離れた小さなフライ(毛鉤)が良く見えないのだ。
9時を回った頃から谷に日光が入って来て暖かくなって来た。それと同時にミッチやメイフライ(川虫)のハッチ(水面で脱皮して成虫になる事)が始まった。早速16番前後のメイフライに交換した途端、バシャッと水面が割れた。合せのタイミングも良く、ロッド(竿)が撓る、と書きたいがそんなに大物じゃない。でも手に伝わる久しぶりの獲物の感覚に血液中のアドレナリン濃度が跳ね上がる。20センチ弱のヤマメだった。それから午後2時までの間に、もちろん小さなヤマメちゃんは魚体を触らないようにリリースしながら、2人で10匹のヤマメをキープ。平均17〜18センチ最大で22センチ、良型は出ないものの楽しめた日曜日だった。
渓流を7〜8時間釣行する間に2回ほど足が攣った。運動不足なのだ。(余談だがポケットに忍ばせたチョコレートを1カケ口に入れると不思議と痙攣が治る。)自然の息吹を身体一杯に吸い込みながら、谷川を遡る事で足腰を鍛えながら、しかも美味しいヤマメちゃんをゲットできる。一挙3徳。だからフライフィッシングに一度ハマルと抜けられないのだ。
渓流も海も、餌釣り師が圧倒的に多い。実際に魚が食う物・食える物を釣り鉤に付けるのだが、そのやり方はフェアじゃない。魚が食えない物を囮にして知恵比べをする、それがフェアなのだ。魚も利口だからどんなに虫に見せかけても見破ってしまう事が多い。だから根こそぎ釣ってしまう事はない。
みなさんにフライフィッシングは薦めない。こんな楽しいものは密かにやる方がいいのだ。ましてや奇麗な海や川は無限に在る訳じゃない。それでなくても釣り師が多すぎるのだ。ただ、これから餌釣りを始めようと思ってる人には、フライの方が何十倍も楽しいし自然に優しい事を伝えたいとは思っているけど、みんな釣りなんてするなよ!!。魚はスーパーや魚屋さんで買って、ジムに行って身体を鍛える。それが都会的でコンビーニエントでベストなのだ。
「スタジオ第3工場」発足(4.15)
茨城県大和村の石屋さんの工場の一角を借りて20年、ひたすら作品を作り続けて来たのだが、親である石屋さんの経営破綻で、昨年の1月以降、仕事場(スタジオ)として使っていた工場が宙ぶらりんになってしまった。同じ境遇で制作を続けていた作家仲間5人が共同出資して、競売に掛かった同工場を何とか手に入れたのが今年の2月末。
全ての法的手続きを終え、4月15日の夜、競売入札でお世話になった地元の方2人を含めて、ささやかな「スタジオ第3工場」発足記念パーティーを開いた。
この歳になってやっと自分達のスタジオを持てたのだ。300坪弱で広いとは言えないが、石を切削する大口径の機械と大型の門型走行クレーンと30馬力のロータリーコンプレッサーがある。
今のところ全てが雑然として、彫刻家のスタジオと呼ぶには程遠い状況なのだが、徐々に整理して行く。トイレを作ったり雨天用の制作場所(屋根のある空間)を作る事を話し合っている。
写真は記念パーティーの食卓だ。近くで採取した山菜(うど、たらのめ、さやえんどう、椎茸、等々)の天ぷら、甘草とエシャレットの酢味噌サラダ、カツオの刺し身、蒟蒻の刺し身、小鯵と玉葱の煮込み和え、菜っぱの御浸し、焼き鳥、それに前日釣ったヤマメの塩焼き、近年稀に見るご馳走だった。料理は全て自分達の手作り、男の料理なのだ。雨引の大人数での宴会料理とは桁違いに繊細な手料理のパーティーになった。たらふく食って飲んだ。
「スタジオ第3工場」構成メンバー:
菅原二郎、村井進吾、廣瀬光、鈴木典生、岡本敦生
みんな宴会大好き人間ばかりだから、皆さんも遊びに来て下さい。
亀とサッカー(2002年6月6日)
ワールドカップサッカーが開幕して、熱戦を繰り広げている。
私も嫌いじゃないんで、テレビに釘付けになる事が多くて、日本の幻の勝ち越しゴールや、アイルランドの神懸かり的な同点ゴールに、独りでボルテージを上げながら一喜一憂している。韓国のチーム一丸となったがむしゃらな戦いぶりに憧れを感じながら、それにしても中田君、小野君、この期に及んでカッコ付けてる場合じゃないんじゃないの? 自分がヒーローである事を意識するのはいいんだけど、カッコマンがプレーに出るかもよ、もっと我武者羅になんなきゃ。なんて事を書くと、彼等のファンに怒られたりして。
今回の参加国にも亀プロの石が数多く行ってて、行ってない国を数える方が少ないんだけど、それなりに意識して応援している。
最近パキスタンのコラボレーター山本さんから、写真とコメントが送られて来て、イスラマバードの緊張した情勢とムシャラフ大統領の苦悩を、大統領府の林の向こうに感じ取る事が出来るのだ。
今までは世界情勢に興味を持つ事よりも、身の回りの事を意識する事の方が多かったんだけど、亀プロを始めて以来、政情や事件や事故が起る度に、コラボレーターの安否を心配する事が多いのだ。大連の航空機事故やアルゼンチンの経済破綻、ジンバブエの大統領選挙、南アの情勢、アルジェリアでのテロ事件、数え上げたら切りがない。
先日のベルギー戦の当日に、ブリュッセルのコラボレーターから写真が届いた。時を同じくしてロシアのコラボレーターからも市内を望める写真が届いている。コラボレーターの方達には申し訳ないんだけど、私はやはり日本を応援するのだ。
亀プロジェクトとサッカーとの、相関関係はほとんど無いのだが、亀は足が鈍い事を考えると、下手に亀プロと関連付けない方がいいのかも。
サッカーと威信(6月14日)
昨日、上野駅の開札で電車の時間を見てたら、アルゼンチンのバディステュータとバロンに擦れ違った。
本来は世界的ヒーローのはずなんだけど、下向き気味にトボトボと歩く姿に寂しさが漂っていた。
たかがサッカーで一回負けただけジャンか、と思うんだけど、国の威信と国民の夢を背負った戦いに勝てなかった者の悲哀が、心の深い所からどうしようもなく染み出ていて、慰めの言葉をかける事も出来なかった。ラテン語が喋れない事もあるけど、切なさのバリヤーが辺り一面に張り付いていて、それを突き破って言葉を掛ける勇気ある者は誰もいないだろうと思った。あれじゃ国に帰れても、しばらくは身動きさえもできないかも知れない。
勝者と敗者がいるからゲームが成り立つんだけど、参加する事に意義があるというオリンピックと、勝たなきゃ国にも帰れないというサッカーとの違いは何処にあるんだろうか。
ここまで書いたところで、日本チームの一次リーグの最終試合、対チュニジア戦が始まった。
何と、あの日本が負け知らずで、一次リーグトップで通過!!!
そう言えば、前回のロシア戦あたりから選手一人一人の目が鋭くなってきたようだ。前記した中田と小野のカッコマンを撤回しなきゃいけない。
そして、日本の若者が一丸となって燃える映像を見たのは、初めてかも知れない。日本に欠落していたもの、若者のエネルギーを感じたのだ。と言いながらも、私もまだ若い部類で、燃えるエネルギーはまだ残っていると思っている。