2004年は度重なる天変地異で、日本のみならす世界で地震・洪水・台風・津波と、人間が築いてきた文明や文化、多くの人命を奪っていった。大晦日になった今日、日本列島を大雪が襲って、交通機関を麻痺させている。明日から新年になる。2005年になったからといって、今まで繰り返してきた自然現象がリセットされるはずもないのだ。だからこの際、人間が地球上で生きるという基本意識の修正が必要じゃないかと思い始めている。金や名誉や社会的な地位や財産等を築き、安定した社会生活を希求するという、基本的な生活意識を変えていく必要性を感じ始めているのだ。モノや財産を増やすことは、失う事への恐怖心を生む。安楽な生活は、人間が本来持っているはずの生きていくための様々な能力を退化させる。文明を頼り過信する事が、感性と視界を狭める事に繋がる。一体どう生きればいいのか?私にも分からないのだが、地球という我々生命を育んだ巨大な存在の有り様に、もっともっと心を向ける必要を感じている。しかし、その有り様に抗う事も従う事も無意味に近い。ただひたすらに、心と知識を傾ける事、今はそれしか思い付かない。ひょっとしてそれは、私自身が宇宙の中に存在する一個の生命として、自らが感じ信じるもの、芸術(クンスト)に心を傾けるのに近いのかも知れない。
T大とJ大の鞴祭りに出た。どちらの祭典も厳かに挙行され、式典後のコンパはとても華やかだった。双方の祭典で、私は翌朝4時半まで飲んでしまった様だ。昨年までは、学生と一度も飲んだ事の無い非常に真面目な講師だったのだが、どういう訳か今年に入ってから、しょっちゅう飲んでいる気がする。しかも年末という時期も加わって、先月の終わり頃から今月にかけて非常に飲む機会が多い。普段は飲み過ぎると直ぐに寝てしまうのだが、若者のパワーとエネルギーにあてられて、このところ何故か朝まで元気に飲んでいる。でもその分、次の日が辛い。やっぱり歳なのだ。先日デジカメを買ったお陰で、カメラ持参で飲むのだが、次の朝、撮った記憶の無い写真がいっぱい入っている。私の顔も出て来るので、恐らくは側に居た人間が、バシバシ撮っているらしい。その全部は紹介できないのだが、悪くない写真をアップしてみた。ただ写真に登場する人達も同様に酔っぱらっていて、一人一人の肖像権とプライバシー保護のために、会に参加した人達だけのページとした。暗証番号を入力しないと写真のページには入れない事を、お許し願いたい。J大・鞴祭りスナップページT大・鞴祭りスナップページ
久々に通年の手帳を買った。もちろん来年の手帳だ。ここ数年来年次手帳の中身を入れ替えた事が無かった。スケジュールが立て込んでいなかった事が大きな要因なのだが、15年以上使ってボロボロになった薄い皮カバーに、入れ替え用の白紙の紙が十数枚と種々のカードetc.が入っていただけで、さして不便は感じなかったのだ。先日なぜか突然に、自称手帳の用をなさない機能と大きさと重さに不愉快さを感じて、来年の手帳を探すべく、銀座のイトウヤに行った。入れ替え用の週割りシートを厳選したのだが、いかにせん手帳カバーが草臥れてきていて、この際手帳カバーから替える事にした。電子手帳なみの値段の張るブランド物のカバーもあるのだが、そんなのは最初から買うつもりはない。それでも向こう10年間は使う事を想定して、コンパクトながらそこそこ気に入った物を探した。その夜、新しいカバーに来年の週割りシートを組み込んで簡単な予定を書き込みながら、長年忘れていたフレッシュな気持に気付いた。自分と自分に関わりのある全てが生まれ変わった気がしたのだ。ここ数年、ただただ悶々としながら日々の繋がりとして次年を迎えていた事を思うと、自分に取ってとても新鮮な出来事だった。数ヶ月前に、友人の使わない電子手帳を譲り受けたのだが、まだまだこいつは使えない。プログラムや機能が一杯あって一見便利そうなのだが、一番の問題は入力に手間がかかる事と、手書き手帳の様な年ごとの新鮮さが無い事だ。コンピューターと連動できる事が謳い文句らしいが、Macには対応していないし、それに重いのだ。やっぱり手帳は、昔ながらの手書き手帳に限る。
まあよく雨が降るものだ。地球温暖化が進んで来ると、局地的に雨が多くなって台風も頻発するらしい。確実に温暖化が進み、それと平行して台風も多くなる。来年はもっと大きな台風が何個も襲って来る。台風22号はギリギリの所でつくば市を躱し太平洋へ去って行った。まともに右フックを食らってたら、庭にある家の貸し主の物置小屋は吹き飛んで、その破片が母屋に突き刺さり、窓のシャッターが壊れてガラスが割れ、暴風雨がモロに家の中に吹き込んで屋根が浮き上がり、その勢いで家の屋根が飛んで行く。屋根の無くなった家は2階から浸水して、1階のオフィス兼居間も水浸しになって、何もかも使い物にならなくなるのが悔しいが、事態はそれどころじゃなく緊迫して来るのだ。我家から飛んで行った屋根は、ご近所の家を直撃して、ご近所の屋根がまたまた飛んで行く。その現象は核分裂の様に連鎖拡大して、つくば以北の屋根という屋根が舞い上がり、栃木県や群馬県、福島県宮城県辺りまで被害は広がってしまうのだ。その後の調査に依れば、被害は甚大で、被災者が住めなくなった家屋を修理するものだから、日本経済は中小企業の建設部門から活気を取り戻したかに見えるのだが、その費用は火災保険から出るものだから、日本の保険屋が大打撃のはずなのだが、保険屋も打撃を軽減するために保険の保険に入っていて、大元のイギリスのロスチャイルドなんかが一時的に大打撃を受ける。その後、彼等も商魂逞しい連中で、温暖化の影響を受けそうな地域や地震が頻発する地域にある保険屋への保険料を値上げして来て、最終的に民間レベルでの損害保険の値上げになるのだが、そこは日本の保険屋も知恵を絞って、保険の掛け金を家の作りに準じて加算する制度を新たに設けるのだ。頑丈に造られた家は保険金が安く、今まで通りに造られた家や昔ながらの家は、保険金額が高いという制度になる可能性がある。日本各地の建設各社は、天災に強い家を開発して、夫々の作りとノウハウの特許を取る。それらは日本に限らず世界中で飛ぶ様に売れ日本経済も立ち直るのだが、それに費やした支出と資源は莫大なもので、世界の資源の枯渇化が加速して来ると同時に、残り少ない資源を手に入れる連中と、そうできない連中の格差が極まって広がる。世界中で貧富の差が拡大すると同時に、各地で暴動や一揆が始まる。富んだ国の富んだ集団は軍隊を出して鎮圧しようとするのだが、貧しい人たちはレジスタンスとして地下に潜る。さてさて、まるで今の世界事象の様にも見えるのだが、何方が勝つかなんて言ってる場合じゃない。現時点で言える事は、台風が私の家を逸れて良かったと言うしか無い。何てったって、横浜でトラックが舞い上がったり将棋倒しになったくらいなんだから。
地震雷火事オヤジとはよく言ったものだけど、貴重にも、ここ数日で火事を除く、それらのほとんどを実体験した。(オヤジとは大風の事)一昨日、トラックで茨城を出て伊勢に向かったのだが、なんと三重県沖で大地震発生。夜中の津波警報の中で海の側の旅館に着いたら、みんな避難の最中。避難すべきか?風呂に入って寝るべきか?一瞬迷ったけど、私の中の優先順位に従った。疲れの方が先だって、風呂に入って寝たのだ。昨日から島根県で設置作業に入ってのだが、台風18号の襲来。ご存じの通りこれがまたスゴイ台風で、美術館の室内とはいえノンビリ設置してる段じゃない。結局作業を始めたのは今日(8日)から。私がいくら雨男だとはいえ、今回のような経験は早々出来るもんじゃない。全く「水の国Museum104°」ならではの貴重な体験なのだ。展覧会の設置作業は一日遅れてしまったけど、順調に進んでいる。いい展覧会になりそうだ。
台風16号が西日本に迫っている。こいつは近年稀に見る強烈な台風だ。お陰で茨城も今日は雨になっている。都会人は台風に関して、関心の薄い輩が多い様だが、田舎で育った私は、昔から台風に関して特別の危機感と警戒心を持っている。トラウマとまでは行かないのだが、台風の度に川が激流となって、その渦巻く川幅は両側の堤防ギリギリ300メーター程に広がる。私の家は、屋根ほどの高さの高い堤防の側にあるのだが、濁流が迫って来て、その高い堤防を超す事がある。地元の消防団が堤防の上に土嚢を積む。上流から牛が流れて来たり、家が丸ごと流れて来たりする。上流の水門が破られて家の築地の上まで水か迫ってきた経験も何度かある。風で近所の戸板や屋根瓦がピューピュー飛んで行くのを見ながら、ギギーギギーと自分の家の軋む音が聞こえるのだ。未だに台風接近と聞くと、体の奥の方から、家を守れという指令が発せられる。私の中の雄としての野生が目覚めるのだ。
日中のスタジオで、46度を超す茹だるような暑さとは裏腹に、窓から吹き込む夜風が、寝苦しい夜を癒してくれる。かと思いきや、我が家の窓を開けると、隣の沼のガマガエル(ウシ蛙)達の夜を徹しての大合唱が、安らかなはずの寝室を轟音のコンサートホールに変質させてしまう。両手の平を広げても入りきれないサイズのウシガエルの歌声は、半端じゃない。カラオケマイクで大鼾をフィードバックさせてエコーをプラスさせたような、コンツェルトへボーのステージの真ん中で、チェロの一番太い弦をノコギリでゴーッゴーッと弾くような、とにかく創造を絶する音で辺り一面に響き渡るのだ。しかも集団で、盛りがついた猫のように、競い合って鳴き叫くものだから、とても寝てなんかいられないのだ。あまりの傍若無人なる振舞に、勢い窓を閉めるのだが、今度は涼風を遮られて暑くて寝られない。昨年のこの時期は、日本にいなくて分からなかったのだが、蛙の合唱がこんなにも安眠を妨げるものだとは思ってもいなかった。先日の日曜日、寝室にエアコンを付ける事にした。冷気で寝るのは体に良くないとは思いながらも、それ以外の方策を思いつかないのだ。日曜日の夕方、合唱団の一員が岸の側の水面に顔を出していて、私と目があった。慌てたのは俺の方で、彼は悠然と私を見上げながら、喉の奥を風船のように膨らませて、例の大声でゴーオーッゴーオーッと鳴き始めた。側に落ちている石を、何個か投げつけた。奴の直ぐ側に着弾しても何食わぬ顔で平然としていた。今度は、何とかして釣り上げて食ってやる。
台風一過の快晴の中、ジリジリと照りつける太陽の下で、汗と埃と紫外線で真っ黒になって石に向かう。夕刻、日の落ちたばかりの少し霞んだ群青色の空の下で、ホッと一息をつく。一日の制作が終わって、フト辺りを見渡すと、仕事場の隅っこにピンク色の花の咲き乱れた木がある事に気付いた。照りつける日の熱を抜かれた爽やかな風に、木全体がワサワサと揺らいでいる。昼間いっぱいに葉を開いていたネムノキが、鳥が羽を休める様に、黄昏の中で葉を閉じたその上に、淡いピンク色がボーッと周囲に色香を振り撒いていた。フォーカスの定まらないビデオ映像の様に、いくら目を凝らしてもそれが一体何なのか分からない。目のピントを何所に合わせればいいのか分からないのだ。枝を引き寄せて、間近に観察したら、綿菓子の様な細い花が十数個集まって、一かたまりになっている事が分かった。中心の辺りはほのかに白くて、毛先に行く程ピンク色を増す。舐めたら先から溶けてしまいそうな不思議な花だ。石とコンクリートと鉄と埃にまみれた存在だらけの敷地内で、ほのかな異性を感た一時だった。ネムノキの枝の先は、これから咲くだろう莟が無数にあった。とうぶん楽しめそうだけど、ネムの花に惑わされたりして。
巨大な台風が沖縄地方を掠めて、西日本に接近している。平均風速50メートルというのは、時速180キロ。すなわち新幹線の平均スピードである。瞬間最大風速は平均風速の1.5倍の風が吹く事を考えると、風速75メートル・時速270キロ。私の借りている家は、ほぼ野原の真ん中に建っているのに等しくて、こんな強い風が吹いたらひとたまりもないんじゃないかと思う。新幹線の屋根にこの家をくっつけて、東京から大阪まで走ったとして、電車が大阪に着く頃には、家の土台しか残ってない様な気がするのだ。台風が接近して来る地方の方々を思うと、気が気じゃない。おふくろが心配なのだ。
呉から倉橋島に掛かる音戸大橋を渡って、音戸町に入る。今年の夏に「音戸アートスケープ・ゲニウスロキ」展の場所決めの下見である。午前中から歩き回って、多くの家を訪問した。音戸はその昔、隠渡と書いたらしいのだが、私は、この隠渡と言う謎めいた旧地名に触発されて、野田氏とのコラボレーションの作品を考えている。昔ながらの街並みは、初夏の照りつける太陽の下でも、何故かしっとりとした感があるから不思議なのだ。最初に古い旧家を見つけて中を拝見した。奥の座敷の間やそれに繋がる畳の間が艶めいた空気を持っていて、ビリビリ来たのだが一足遅かった様だ。参加作家が、嘗ての店構えのエントランス空間を使う事を決定したとの事。共存できないかと本人にコンタクトを取ったのだが、やはり無理のようだ。彼の作品に期待しながら、後ろ髪を引かれる思いで、新たな探索を繰り返し、何軒かの空間に出会ったのだが、ご老人が在住だったり動かしようのない建て付けや荷物が置いてあったりして、決定的な艶のある空間には出会う事ができなかった。でも何とかなるという思いを確かにして、夜の音戸を後にした。
親父の3回忌を終えて、広島市立大に行き、音戸の展覧会の企画者4人と夜遅くまで話した。果たして若い作家たちのエネルギー発散の場となるのか? これからの美術と社会・文化を牽引するエネルギーを持ちうるか?。一人の参加者として純粋に立ち向い見守る事にした。
広島から、島根県桜江町「水の国 museum104°」に向かった。緑深い中国山地の谷間を抜けて、江の川沿いを北に下ると連山の谷間に水をたたえた簡素な美術館がある。今年の9月10日からの個展を控えて、現状の視察に行った。西雅秋さんの個展中でミニマルな作品が展示されていて、昨年の古郡さんの個展の土壁作品も緑の空間の中にカタツムリの様にある。この美術館が出来た当初から関わり合いがあるのだが、今更ながらシンプルな空間の特異性に見せられてしまった。これからが私としての正念場だ。
先週から延べ週に4日間大学に出向している。非常の日雇い労務者としては異例の出講日である。そんなこんなで、この時期は仕事に集中できないがのだが、そうも言ってられない状況下で、神経を擦り減らしながら、なんとか、某コンペの作品のプランニングに専念している。この時期が忙しい事は最初から分かっているんだから、もっと早くから始めればこんなに苦労する事は無いのだけれど、いつもギリギリまで考えているのだ。遊んでいる訳じゃない。頭に浮かぶ色んなプランと自分の欲望とを、一つ一つ切り捨てながら一つのものに纏め上げるのに時間がかかるのだ。少しの余裕や時間があると、私も人間だから色んな雑念が入ってくる。でも最終的に行き着くのは、制作にかかる経費や名誉欲は度外視して、規定の空間の中で、今やりたい事をやるしかないという結論に達する。それでだめなら自分として諦めがつくのだ。
ちょっと髭を剃ってみた。とは言うものの20歳の頃から剃った事が無かったから、自分でも32年ぶり、興味あったのだ。最近髭が白くなって、やたらと年食って見える。それじゃなくても髪の毛が透き通って見えるから、いつも10歳は年を食ってみられるのだ。酒を飲んで、なぜかズバッと剃ってしまった。剃ってみたら新鮮だったのだが、鼻の下が長かった事に気付いた。あれから二日、もう髭がバリバリ生えてきた。また剃るかそのままにするか、きょうび自分の髭如きで、こんなにワクワク楽しめるのが面白い。
早朝から渓流釣りに行った。栃木の那珂川水系のムモ川に入った。谷間は風もなくて、釣り日和だったのだが、小さい15〜18cmのリリースサイズのヤマメがチャラ瀬でフライを食ってきた。この連休中、餌釣り師がワンサカ入ったようで、魚がいるはずのプールには何処も魚影がない。前回の釣行がドイツのキルリバーだったせいもあって、ちょっとばかり寂しくなった。日本では誰でも川に入れるし、リリースサイズに制限がないから釣れたものは全て持ち帰り自由なのだ。ドイツは、釣りのための専門学校を卒業して、難関の検定試験をパスしないとライセンス証がもらえない。それを所持しないと、それぞれの川で発行する釣り券も購入できないし、川に入る事も出来ない。何たって川は私有財産なのだ。どちらの制度がいいのか、その是非は別にして、魚にとってはドイツが住みいいようだ。ドイツのフィッシング、詳しくは「ただの雑談」の中の「フィッシング」に書いています。
コラボレーション展の「ギャラリー東京ユマニテ」は昨日で終了した。私は時間が取れなくて、画廊に顔を出す機会があまりなかったのだが、充実した展覧会期になったようだ。ギャラリー山口の方は、5月8日までで、連休中も開廊している。展覧会で作品を作るのはいいのだが、展覧会が終了して、展示作品を何処にストックするか? コラボレーションは風化に強い石の彫刻だけじゃなくて、その上に絵画が描いてあるので、デリケートな箱入り娘なのだ。会期中にお嫁入り先が決まる事が一番望ましいのだが、そんな経験はほとんど無い。手塩にかけて育てた娘は結納金が安くないから、もらい手がつかないのかなあ。
先日から体調を崩してしまって、日がな一日、家でゴロゴロする日が続いている。今までにも同じような状態で半日程休んだ事はあるのだが、こんなに長い間(3〜4日間も)休んだ事はない。普通なら一日もゴロゴロしていると、動きたくてウズウズしてくるはずなのだ。でも今回はちょっと違う。どこかがシクシク痛むとか吐き気がするとかという顕著な症状でもあれば、迷わず病院に行くんだが、何となくモタッとしているだけで、力が沸いてこない。とにかく腹に力が入らないのだ。丹田にエネルギーが溜まってこないのだ。春症候群?
駅前の視察のために栃木市に行った。栃木市はやっぱり栃木県にあるのだ。茨城から国道50号線を北上して小山を過ぎたあたりで右折、約2時間弱で栃木市に着く。栃木市には多くの古い倉が残っている。中心街は観光スポットとして綺麗に整備されて見応えのある都市空間が作られている。古い倉がお店や喫茶店になっていたり、新聞社の社屋になっていたり、美術館になっていたりする。電柱も取り払われて、すっきりした街並みが広がっている。その街並みの中に煎餅屋さんを見つけた。そのお店の軒下にサイドカー付きハレーダビットソンがでかい顔を出して辺りを威嚇していた。日本の古い倉とアメリカのバイク、威風堂々とした風格は、優劣を付け難いが、景観に収まっているから不思議である。「山本有三ふるさと記念館」にお邪魔して、氏の代表作「路傍の石」を買った。その街並みの外れに交番があった。交番も白壁と瓦が絶妙にマッチした倉仕立てで、町の景観にバッチリ合っている。なんと交番の入り口に藍染めの暖簾が掛かっていた。白抜き文字で「万町交番」と書かれた渋い暖簾が、行き交う人をヒラヒラ誘っているのだ。腹が減るとつい入りたくなってくる。「いらっしゃーい」「おしぼり二つ」と半纏に捻り鉢巻き姿の粋なお巡りさんが、カウンターの中で・・・・、威勢のいい声が聞こえてきそうな交番だ。「暖簾をくぐると、そこは交番だった」なんて、日本広しと言えどもなかなかお目に掛かれるものではない。いやはや、いい街だ。
イデミスギノという、知る人ぞ知る有名なケーキ屋さんが、ギャラリー山口の対面にある。このケーキ屋さんができて間もない頃、一度だけそこのケーキをご馳走になった事がある。ケーキについては門外漢の私でも、さすがに旨いと思った。今月19日からのコラボ展のDMを受け取るためにギャラリーに行った。ギャラリーのスタッフが入れてくれた美味しいコーヒーを頂きながら、あれこれ喋っていると、なんと!イデミスギノさんの奥さんからケーキの差し入れがあったのだ。ギャラリーのスタッフの話によれば、ケーキを作られて数時間のうちに完売になるらしいのだが、珍しくこの日は少し余ったのだそうだ。余ったと言っても、お客さんは絶え間なく来ているから普通に考えると売れるのだが、パティシエの杉野さんにはこだわりがあって、一定時間が経過したケーキは売れ残りとして販売しないらしい。種類に依っては持ち帰り不可のケーキもあるとのこと。まさに対面の利。珍しく少しのケーキが余って、ギャラリーにお裾分けがあって、偶然にも私が居合わせたのだ。そしてケーキを二つもご馳走になった。ミントとチョコのケーキはミントの香りが効いて大人の味、クルミのケーキはほのかに甘くまろやかだった。一連の出来事にほのぼのとした下町的情緒も感じながら、とにかく旨かった。
スタジオ第3工場(アトリエ)メンバーの中で、スタジオでの制作をメーンに生計を立てている3人(村井・鈴木・岡本)のオリジナル商品「ダックスフンドのベンチ」(MOSプロジェクトとしての商品)2点の設置に行った。茨城を早朝5時に出たから川崎の幼稚園に8時に着いた。横浜で午後イチからの設置予約があるために早朝から設置作業に掛かるという予めの申し合わせのはずで設置準備を進めていたら、「親会社からは聞いていない。早すぎる」と言ってオーナーにこっぴどく怒られた。私も村井氏も鈴木氏も下請け石屋の彫刻職人として割り切って考える事にしているのだが、さすがにグッとこらえている表情の下で眉毛がピクピク動くのは押さえられなかった。午後からの設置は横浜。ここは非常に好意的な保育園で作業にも身が入り、ダックスフンドも皆さんにも気に入られたのだった。まずは無事に設置できて良かった良かった。
昨日から今日にかけて、いわき湯本温泉ツアーに参加した。メンバーは雨引の里と彫刻の参加メンバー勇士である。 写真がちょっと小さいが、右から國安/村井/海崎/島田/廣瀬/鈴木/水上、それに撮影者の私である。美術界ではそうそうたるメンバーなのだが、蓋を返せばオジンの盛り合わせで、湯治場的なシンミリとした宴会だ。それもまた最高に良し。コンパニオンを呼ぶとか芸者さんをあげようとか、そんな会話が酒のツマになって、ノンビリ食べてユッタリと楽しんだのだ。宴会は写真の料理の他に豪華な刺身盛り合わせが付いて、アンコウ鍋が付いて、腹十杯くらいになった。その後でマッサージを頼んで、日頃の凝りをほぐしたのだ。温泉は、ほのかに硫黄の匂いがして、私の肌もスベスベになる。露天風呂に入って大浴場の湯にノンビリとつかり、美味しいご飯を食べ酒をたらふく飲んで、最高の温泉ツアーだった。翌日(今日)は、小名浜の福島海洋科学館(近代的な水族館)を見学。トドやセイウチ、タマちゃんの様なゴマアザラシをひたすら観察し、大水槽で泳ぐ鰹の金属的な姿に感動したり、イワシの群れの動きに次期インスタレーションの予兆を感じて、昼食に海鮮料理を食べて帰ってきた。仕事場に着いたら、雨の中で雨引の桜が咲き始めていた。
今日、日比谷通り(日比谷通りは片側3車線で、丸の内と皇居との間を走っている東京の玄関とも言えるきれいな大通りである。)を車で走っていたら、左前方の車が窓からプラスチックゴミをポイッと道路に捨てて行った。この馬鹿がと思い、少し追いかけたのだが、渋滞で追いつかない。仕方ないから車のナンバーを確認した。オイオイやっぱりそうか、と思った。
仕事を早めに切り上げて、つくばの電気店とPCショップに行った。その途中が渋滞していて、裏道を通ったのだが、その途中で、かっこいい木を見つけた。何がかっこいいたって、完璧に彫刻になってると言うか、彫刻やアートを遥かに通り越して、完璧なまでに空間と木のエネルギーが形を通してせめぎあっている超彫刻なのだ。その敷地の門扉には揚水機場と書いてある。木の手前脇にはミニマルアートの極致とも言うべき、コンクリート製の真四角のキューブ(約3m大)がドーンと建てられている。中に揚水機が入っているのかも知れないが、そんな事はどうだっていい。完璧なるシチュエーションである。そんじょそこらの美術館や建築空間ではお目にかかれない程の空間と形とのコンポジション。密かな新名所に登録したのだが、木が芽吹いてくるとまた見え方が違う可能性が大。今が見頃だ。
ダンギと言うと、先ず頭に浮かんで来るのが、ダンギの蒲焼きである。私が小学校の頃に一度食べた事があるが、こいつは最高に美味い。40年経ってもその味を覚えているのだから、相当に美味いのだ。正式な学名は分からないのだが、ダンギは水のきれいな川の砂地に住む、ちょっとハゼに似た魚である。正面から見ると5角形の頭で、鯒を縦長にしたような格好なのだが、体調が大人で20cm前後、体色は砂地の保護色になっていて、淡い白御影石に似たきれいな砂の色をしている。私が子供の頃には、家の前の太田川という大きな川の至る所にいて、よく捕ったものだが、それ以後一度もお目にかかった事はない。絶滅危惧種?、もはや絶滅しちゃったのかも知れない。ダンギの対局にいるのがギギュウなのだ。汚い水の淀んだような深場にいてナマズの様な体型とヌメリがあって、背鰭に毒を持っていてこれで刺すのだ。釣り針に掛ったり網にかかると直ぐに捨ててしまう、子供心に忌まわしい魚だった記憶がある。ギギュウももういないかなあ。
2004.12.31、
2004年は度重なる天変地異で、日本のみならす世界で地震・洪水・台風・津波と、人間が築いてきた文明や文化、多くの人命を奪っていった。大晦日になった今日、日本列島を大雪が襲って、交通機関を麻痺させている。
明日から新年になる。2005年になったからといって、今まで繰り返してきた自然現象がリセットされるはずもないのだ。だからこの際、人間が地球上で生きるという基本意識の修正が必要じゃないかと思い始めている。
金や名誉や社会的な地位や財産等を築き、安定した社会生活を希求するという、基本的な生活意識を変えていく必要性を感じ始めているのだ。
モノや財産を増やすことは、失う事への恐怖心を生む。安楽な生活は、人間が本来持っているはずの生きていくための様々な能力を退化させる。文明を頼り過信する事が、感性と視界を狭める事に繋がる。
一体どう生きればいいのか?私にも分からないのだが、地球という我々生命を育んだ巨大な存在の有り様に、もっともっと心を向ける必要を感じている。しかし、その有り様に抗う事も従う事も無意味に近い。ただひたすらに、心と知識を傾ける事、今はそれしか思い付かない。
ひょっとしてそれは、私自身が宇宙の中に存在する一個の生命として、自らが感じ信じるもの、芸術(クンスト)に心を傾けるのに近いのかも知れない。
2004.11.5.と、2004.12.3、
T大とJ大の鞴祭りに出た。どちらの祭典も厳かに挙行され、式典後のコンパはとても華やかだった。双方の祭典で、私は翌朝4時半まで飲んでしまった様だ。
昨年までは、学生と一度も飲んだ事の無い非常に真面目な講師だったのだが、どういう訳か今年に入ってから、しょっちゅう飲んでいる気がする。しかも年末という時期も加わって、先月の終わり頃から今月にかけて非常に飲む機会が多い。
普段は飲み過ぎると直ぐに寝てしまうのだが、若者のパワーとエネルギーにあてられて、このところ何故か朝まで元気に飲んでいる。でもその分、次の日が辛い。やっぱり歳なのだ。
先日デジカメを買ったお陰で、カメラ持参で飲むのだが、次の朝、撮った記憶の無い写真がいっぱい入っている。私の顔も出て来るので、恐らくは側に居た人間が、バシバシ撮っているらしい。その全部は紹介できないのだが、悪くない写真をアップしてみた。ただ写真に登場する人達も同様に酔っぱらっていて、一人一人の肖像権とプライバシー保護のために、会に参加した人達だけのページとした。暗証番号を入力しないと写真のページには入れない事を、お許し願いたい。
J大・鞴祭りスナップページ
T大・鞴祭りスナップページ
2004.10.31、
久々に通年の手帳を買った。もちろん来年の手帳だ。
ここ数年来年次手帳の中身を入れ替えた事が無かった。スケジュールが立て込んでいなかった事が大きな要因なのだが、15年以上使ってボロボロになった薄い皮カバーに、入れ替え用の白紙の紙が十数枚と種々のカードetc.が入っていただけで、さして不便は感じなかったのだ。
先日なぜか突然に、自称手帳の用をなさない機能と大きさと重さに不愉快さを感じて、来年の手帳を探すべく、銀座のイトウヤに行った。入れ替え用の週割りシートを厳選したのだが、いかにせん手帳カバーが草臥れてきていて、この際手帳カバーから替える事にした。電子手帳なみの値段の張るブランド物のカバーもあるのだが、そんなのは最初から買うつもりはない。それでも向こう10年間は使う事を想定して、コンパクトながらそこそこ気に入った物を探した。その夜、新しいカバーに来年の週割りシートを組み込んで簡単な予定を書き込みながら、長年忘れていたフレッシュな気持に気付いた。自分と自分に関わりのある全てが生まれ変わった気がしたのだ。ここ数年、ただただ悶々としながら日々の繋がりとして次年を迎えていた事を思うと、自分に取ってとても新鮮な出来事だった。
数ヶ月前に、友人の使わない電子手帳を譲り受けたのだが、まだまだこいつは使えない。プログラムや機能が一杯あって一見便利そうなのだが、一番の問題は入力に手間がかかる事と、手書き手帳の様な年ごとの新鮮さが無い事だ。コンピューターと連動できる事が謳い文句らしいが、Macには対応していないし、それに重いのだ。
やっぱり手帳は、昔ながらの手書き手帳に限る。
2004.10.10、
まあよく雨が降るものだ。地球温暖化が進んで来ると、局地的に雨が多くなって台風も頻発するらしい。確実に温暖化が進み、それと平行して台風も多くなる。来年はもっと大きな台風が何個も襲って来る。
台風22号はギリギリの所でつくば市を躱し太平洋へ去って行った。まともに右フックを食らってたら、庭にある家の貸し主の物置小屋は吹き飛んで、その破片が母屋に突き刺さり、窓のシャッターが壊れてガラスが割れ、暴風雨がモロに家の中に吹き込んで屋根が浮き上がり、その勢いで家の屋根が飛んで行く。屋根の無くなった家は2階から浸水して、1階のオフィス兼居間も水浸しになって、何もかも使い物にならなくなるのが悔しいが、事態はそれどころじゃなく緊迫して来るのだ。我家から飛んで行った屋根は、ご近所の家を直撃して、ご近所の屋根がまたまた飛んで行く。その現象は核分裂の様に連鎖拡大して、つくば以北の屋根という屋根が舞い上がり、栃木県や群馬県、福島県宮城県辺りまで被害は広がってしまうのだ。
その後の調査に依れば、被害は甚大で、被災者が住めなくなった家屋を修理するものだから、日本経済は中小企業の建設部門から活気を取り戻したかに見えるのだが、その費用は火災保険から出るものだから、日本の保険屋が大打撃のはずなのだが、保険屋も打撃を軽減するために保険の保険に入っていて、大元のイギリスのロスチャイルドなんかが一時的に大打撃を受ける。その後、彼等も商魂逞しい連中で、温暖化の影響を受けそうな地域や地震が頻発する地域にある保険屋への保険料を値上げして来て、最終的に民間レベルでの損害保険の値上げになるのだが、そこは日本の保険屋も知恵を絞って、保険の掛け金を家の作りに準じて加算する制度を新たに設けるのだ。頑丈に造られた家は保険金が安く、今まで通りに造られた家や昔ながらの家は、保険金額が高いという制度になる可能性がある。日本各地の建設各社は、天災に強い家を開発して、夫々の作りとノウハウの特許を取る。それらは日本に限らず世界中で飛ぶ様に売れ日本経済も立ち直るのだが、それに費やした支出と資源は莫大なもので、世界の資源の枯渇化が加速して来ると同時に、残り少ない資源を手に入れる連中と、そうできない連中の格差が極まって広がる。世界中で貧富の差が拡大すると同時に、各地で暴動や一揆が始まる。富んだ国の富んだ集団は軍隊を出して鎮圧しようとするのだが、貧しい人たちはレジスタンスとして地下に潜る。
さてさて、まるで今の世界事象の様にも見えるのだが、何方が勝つかなんて言ってる場合じゃない。
現時点で言える事は、台風が私の家を逸れて良かったと言うしか無い。何てったって、横浜でトラックが舞い上がったり将棋倒しになったくらいなんだから。
2004.9.8、
地震雷火事オヤジとはよく言ったものだけど、貴重にも、ここ数日で火事を除く、それらのほとんどを実体験した。(オヤジとは大風の事)
一昨日、トラックで茨城を出て伊勢に向かったのだが、なんと三重県沖で大地震発生。夜中の津波警報の中で海の側の旅館に着いたら、みんな避難の最中。避難すべきか?風呂に入って寝るべきか?一瞬迷ったけど、私の中の優先順位に従った。疲れの方が先だって、風呂に入って寝たのだ。
昨日から島根県で設置作業に入ってのだが、台風18号の襲来。ご存じの通りこれがまたスゴイ台風で、美術館の室内とはいえノンビリ設置してる段じゃない。結局作業を始めたのは今日(8日)から。
私がいくら雨男だとはいえ、今回のような経験は早々出来るもんじゃない。全く「水の国Museum104°」ならではの貴重な体験なのだ。
展覧会の設置作業は一日遅れてしまったけど、順調に進んでいる。いい展覧会になりそうだ。
2004.8.29、
台風16号が西日本に迫っている。こいつは近年稀に見る強烈な台風だ。お陰で茨城も今日は雨になっている。
都会人は台風に関して、関心の薄い輩が多い様だが、田舎で育った私は、昔から台風に関して特別の危機感と警戒心を持っている。トラウマとまでは行かないのだが、台風の度に川が激流となって、その渦巻く川幅は両側の堤防ギリギリ300メーター程に広がる。私の家は、屋根ほどの高さの高い堤防の側にあるのだが、濁流が迫って来て、その高い堤防を超す事がある。地元の消防団が堤防の上に土嚢を積む。上流から牛が流れて来たり、家が丸ごと流れて来たりする。上流の水門が破られて家の築地の上まで水か迫ってきた経験も何度かある。風で近所の戸板や屋根瓦がピューピュー飛んで行くのを見ながら、ギギーギギーと自分の家の軋む音が聞こえるのだ。
未だに台風接近と聞くと、体の奥の方から、家を守れという指令が発せられる。私の中の雄としての野生が目覚めるのだ。
2004.7.15、
日中のスタジオで、46度を超す茹だるような暑さとは裏腹に、窓から吹き込む夜風が、寝苦しい夜を癒してくれる。かと思いきや、我が家の窓を開けると、隣の沼のガマガエル(ウシ蛙)達の夜を徹しての大合唱が、安らかなはずの寝室を轟音のコンサートホールに変質させてしまう。両手の平を広げても入りきれないサイズのウシガエルの歌声は、半端じゃない。カラオケマイクで大鼾をフィードバックさせてエコーをプラスさせたような、コンツェルトへボーのステージの真ん中で、チェロの一番太い弦をノコギリでゴーッゴーッと弾くような、とにかく創造を絶する音で辺り一面に響き渡るのだ。しかも集団で、盛りがついた猫のように、競い合って鳴き叫くものだから、とても寝てなんかいられないのだ。あまりの傍若無人なる振舞に、勢い窓を閉めるのだが、今度は涼風を遮られて暑くて寝られない。昨年のこの時期は、日本にいなくて分からなかったのだが、蛙の合唱がこんなにも安眠を妨げるものだとは思ってもいなかった。
先日の日曜日、寝室にエアコンを付ける事にした。冷気で寝るのは体に良くないとは思いながらも、それ以外の方策を思いつかないのだ。
日曜日の夕方、合唱団の一員が岸の側の水面に顔を出していて、私と目があった。慌てたのは俺の方で、彼は悠然と私を見上げながら、喉の奥を風船のように膨らませて、例の大声でゴーオーッゴーオーッと鳴き始めた。側に落ちている石を、何個か投げつけた。奴の直ぐ側に着弾しても何食わぬ顔で平然としていた。
今度は、何とかして釣り上げて食ってやる。
2004.6.23、
台風一過の快晴の中、ジリジリと照りつける太陽の下で、汗と埃と紫外線で真っ黒になって石に向かう。
夕刻、日の落ちたばかりの少し霞んだ群青色の空の下で、ホッと一息をつく。
一日の制作が終わって、フト辺りを見渡すと、仕事場の隅っこにピンク色の花の咲き乱れた木がある事に気付いた。照りつける日の熱を抜かれた爽やかな風に、木全体がワサワサと揺らいでいる。昼間いっぱいに葉を開いていたネムノキが、鳥が羽を休める様に、黄昏の中で葉を閉じたその上に、淡いピンク色がボーッと周囲に色香を振り撒いていた。フォーカスの定まらないビデオ映像の様に、いくら目を凝らしてもそれが一体何なのか分からない。目のピントを何所に合わせればいいのか分からないのだ。
枝を引き寄せて、間近に観察したら、綿菓子の様な細い花が十数個集まって、一かたまりになっている事が分かった。中心の辺りはほのかに白くて、毛先に行く程ピンク色を増す。舐めたら先から溶けてしまいそうな不思議な花だ。
石とコンクリートと鉄と埃にまみれた存在だらけの敷地内で、ほのかな異性を感た一時だった。ネムノキの枝の先は、これから咲くだろう莟が無数にあった。とうぶん楽しめそうだけど、ネムの花に惑わされたりして。
2004.6.20、
巨大な台風が沖縄地方を掠めて、西日本に接近している。平均風速50メートルというのは、時速180キロ。すなわち新幹線の平均スピードである。瞬間最大風速は平均風速の1.5倍の風が吹く事を考えると、風速75メートル・時速270キロ。
私の借りている家は、ほぼ野原の真ん中に建っているのに等しくて、こんな強い風が吹いたらひとたまりもないんじゃないかと思う。新幹線の屋根にこの家をくっつけて、東京から大阪まで走ったとして、電車が大阪に着く頃には、家の土台しか残ってない様な気がするのだ。
台風が接近して来る地方の方々を思うと、気が気じゃない。おふくろが心配なのだ。
2004.6.3、
呉から倉橋島に掛かる音戸大橋を渡って、音戸町に入る。今年の夏に「音戸アートスケープ・ゲニウスロキ」展の場所決めの下見である。午前中から歩き回って、多くの家を訪問した。音戸はその昔、隠渡と書いたらしいのだが、私は、この隠渡と言う謎めいた旧地名に触発されて、野田氏とのコラボレーションの作品を考えている。昔ながらの街並みは、初夏の照りつける太陽の下でも、何故かしっとりとした感があるから不思議なのだ。
最初に古い旧家を見つけて中を拝見した。奥の座敷の間やそれに繋がる畳の間が艶めいた空気を持っていて、ビリビリ来たのだが一足遅かった様だ。参加作家が、嘗ての店構えのエントランス空間を使う事を決定したとの事。共存できないかと本人にコンタクトを取ったのだが、やはり無理のようだ。彼の作品に期待しながら、後ろ髪を引かれる思いで、新たな探索を繰り返し、何軒かの空間に出会ったのだが、ご老人が在住だったり動かしようのない建て付けや荷物が置いてあったりして、決定的な艶のある空間には出会う事ができなかった。でも何とかなるという思いを確かにして、夜の音戸を後にした。
2004.6.2、
親父の3回忌を終えて、広島市立大に行き、音戸の展覧会の企画者4人と夜遅くまで話した。果たして若い作家たちのエネルギー発散の場となるのか? これからの美術と社会・文化を牽引するエネルギーを持ちうるか?。一人の参加者として純粋に立ち向い見守る事にした。
2004.6.1、
広島から、島根県桜江町「水の国 museum104°」に向かった。緑深い中国山地の谷間を抜けて、江の川沿いを北に下ると連山の谷間に水をたたえた簡素な美術館がある。
今年の9月10日からの個展を控えて、現状の視察に行った。西雅秋さんの個展中でミニマルな作品が展示されていて、昨年の古郡さんの個展の土壁作品も緑の空間の中にカタツムリの様にある。
この美術館が出来た当初から関わり合いがあるのだが、今更ながらシンプルな空間の特異性に見せられてしまった。これからが私としての正念場だ。
2004.5.16、
先週から延べ週に4日間大学に出向している。非常の日雇い労務者としては異例の出講日である。そんなこんなで、この時期は仕事に集中できないがのだが、そうも言ってられない状況下で、神経を擦り減らしながら、なんとか、某コンペの作品のプランニングに専念している。
この時期が忙しい事は最初から分かっているんだから、もっと早くから始めればこんなに苦労する事は無いのだけれど、いつもギリギリまで考えているのだ。遊んでいる訳じゃない。頭に浮かぶ色んなプランと自分の欲望とを、一つ一つ切り捨てながら一つのものに纏め上げるのに時間がかかるのだ。
少しの余裕や時間があると、私も人間だから色んな雑念が入ってくる。でも最終的に行き着くのは、制作にかかる経費や名誉欲は度外視して、規定の空間の中で、今やりたい事をやるしかないという結論に達する。それでだめなら自分として諦めがつくのだ。
2004.5.9、
ちょっと髭を剃ってみた。とは言うものの20歳の頃から剃った事が無かったから、自分でも32年ぶり、興味あったのだ。
最近髭が白くなって、やたらと年食って見える。それじゃなくても髪の毛が透き通って見えるから、いつも10歳は年を食ってみられるのだ。
酒を飲んで、なぜかズバッと剃ってしまった。剃ってみたら新鮮だったのだが、鼻の下が長かった事に気付いた。あれから二日、もう髭がバリバリ生えてきた。また剃るかそのままにするか、きょうび自分の髭如きで、こんなにワクワク楽しめるのが面白い。
2004.5.4、
早朝から渓流釣りに行った。栃木の那珂川水系のムモ川に入った。谷間は風もなくて、釣り日和だったのだが、小さい15〜18cmのリリースサイズのヤマメがチャラ瀬でフライを食ってきた。
この連休中、餌釣り師がワンサカ入ったようで、魚がいるはずのプールには何処も魚影がない。前回の釣行がドイツのキルリバーだったせいもあって、ちょっとばかり寂しくなった。日本では誰でも川に入れるし、リリースサイズに制限がないから釣れたものは全て持ち帰り自由なのだ。
ドイツは、釣りのための専門学校を卒業して、難関の検定試験をパスしないとライセンス証がもらえない。それを所持しないと、それぞれの川で発行する釣り券も購入できないし、川に入る事も出来ない。何たって川は私有財産なのだ。
どちらの制度がいいのか、その是非は別にして、魚にとってはドイツが住みいいようだ。
ドイツのフィッシング、詳しくは「ただの雑談」の中の「フィッシング」に書いています。
2004.5.2、
コラボレーション展の「ギャラリー東京ユマニテ」は昨日で終了した。私は時間が取れなくて、画廊に顔を出す機会があまりなかったのだが、充実した展覧会期になったようだ。ギャラリー山口の方は、5月8日までで、連休中も開廊している。
展覧会で作品を作るのはいいのだが、展覧会が終了して、展示作品を何処にストックするか? コラボレーションは風化に強い石の彫刻だけじゃなくて、その上に絵画が描いてあるので、デリケートな箱入り娘なのだ。会期中にお嫁入り先が決まる事が一番望ましいのだが、そんな経験はほとんど無い。手塩にかけて育てた娘は結納金が安くないから、もらい手がつかないのかなあ。
2004.4.14、
先日から体調を崩してしまって、日がな一日、家でゴロゴロする日が続いている。今までにも同じような状態で半日程休んだ事はあるのだが、こんなに長い間(3〜4日間も)休んだ事はない。普通なら一日もゴロゴロしていると、動きたくてウズウズしてくるはずなのだ。でも今回はちょっと違う。
どこかがシクシク痛むとか吐き気がするとかという顕著な症状でもあれば、迷わず病院に行くんだが、何となくモタッとしているだけで、力が沸いてこない。とにかく腹に力が入らないのだ。丹田にエネルギーが溜まってこないのだ。
春症候群?
2004.4.5、
駅前の視察のために栃木市に行った。栃木市はやっぱり栃木県にあるのだ。茨城から国道50号線を北上して小山を過ぎたあたりで右折、約2時間弱で栃木市に着く。栃木市には多くの古い倉が残っている。中心街は観光スポットとして綺麗に整備されて見応えのある都市空間が作られている。古い倉がお店や喫茶店になっていたり、新聞社の社屋になっていたり、美術館になっていたりする。電柱も取り払われて、すっきりした街並みが広がっている。
その街並みの中に煎餅屋さんを見つけた。そのお店の軒下にサイドカー付きハレーダビットソンがでかい顔を出して辺りを威嚇していた。
日本の古い倉とアメリカのバイク、威風堂々とした風格は、優劣を付け難いが、景観に収まっているから不思議である。「山本有三ふるさと記念館」にお邪魔して、氏の代表作「路傍の石」を買った。
その街並みの外れに交番があった。交番も白壁と瓦が絶妙にマッチした倉仕立てで、町の景観にバッチリ合っている。なんと交番の入り口に藍染めの暖簾が掛かっていた。白抜き文字で「万町交番」と書かれた渋い暖簾が、行き交う人をヒラヒラ誘っているのだ。腹が減るとつい入りたくなってくる。「いらっしゃーい」「おしぼり二つ」と半纏に捻り鉢巻き姿の粋なお巡りさんが、カウンターの中で・・・・、威勢のいい声が聞こえてきそうな交番だ。「暖簾をくぐると、そこは交番だった」なんて、日本広しと言えどもなかなかお目に掛かれるものではない。いやはや、いい街だ。
2004.4.2、
イデミスギノという、知る人ぞ知る有名なケーキ屋さんが、ギャラリー山口の対面にある。このケーキ屋さんができて間もない頃、一度だけそこのケーキをご馳走になった事がある。ケーキについては門外漢の私でも、さすがに旨いと思った。
今月19日からのコラボ展のDMを受け取るためにギャラリーに行った。ギャラリーのスタッフが入れてくれた美味しいコーヒーを頂きながら、あれこれ喋っていると、なんと!イデミスギノさんの奥さんからケーキの差し入れがあったのだ。ギャラリーのスタッフの話によれば、ケーキを作られて数時間のうちに完売になるらしいのだが、珍しくこの日は少し余ったのだそうだ。余ったと言っても、お客さんは絶え間なく来ているから普通に考えると売れるのだが、パティシエの杉野さんにはこだわりがあって、一定時間が経過したケーキは売れ残りとして販売しないらしい。種類に依っては持ち帰り不可のケーキもあるとのこと。
まさに対面の利。珍しく少しのケーキが余って、ギャラリーにお裾分けがあって、偶然にも私が居合わせたのだ。そしてケーキを二つもご馳走になった。ミントとチョコのケーキはミントの香りが効いて大人の味、クルミのケーキはほのかに甘くまろやかだった。一連の出来事にほのぼのとした下町的情緒も感じながら、とにかく旨かった。
2004.3.31、
スタジオ第3工場(アトリエ)メンバーの中で、スタジオでの制作をメーンに生計を立てている3人(村井・鈴木・岡本)のオリジナル商品「ダックスフンドのベンチ」(MOSプロジェクトとしての商品)2点の設置に行った。茨城を早朝5時に出たから川崎の幼稚園に8時に着いた。横浜で午後イチからの設置予約があるために早朝から設置作業に掛かるという予めの申し合わせのはずで設置準備を進めていたら、「親会社からは聞いていない。早すぎる」と言ってオーナーにこっぴどく怒られた。私も村井氏も鈴木氏も下請け石屋の彫刻職人として割り切って考える事にしているのだが、さすがにグッとこらえている表情の下で眉毛がピクピク動くのは押さえられなかった。
午後からの設置は横浜。ここは非常に好意的な保育園で作業にも身が入り、ダックスフンドも皆さんにも気に入られたのだった。まずは無事に設置できて良かった良かった。
2004.3.30、
昨日から今日にかけて、いわき湯本温泉ツアーに参加した。メンバーは雨引の里と彫刻の参加メンバー勇士である。 写真がちょっと小さいが、右から國安/村井/海崎/島田/廣瀬/鈴木/水上、それに撮影者の私である。美術界ではそうそうたるメンバーなのだが、蓋を返せばオジンの盛り合わせで、湯治場的なシンミリとした宴会だ。それもまた最高に良し。コンパニオンを呼ぶとか芸者さんをあげようとか、そんな会話が酒のツマになって、ノンビリ食べてユッタリと楽しんだのだ。宴会は写真の料理の他に豪華な刺身盛り合わせが付いて、アンコウ鍋が付いて、腹十杯くらいになった。その後でマッサージを頼んで、日頃の凝りをほぐしたのだ。
温泉は、ほのかに硫黄の匂いがして、私の肌もスベスベになる。露天風呂に入って大浴場の湯にノンビリとつかり、美味しいご飯を食べ酒をたらふく飲んで、最高の温泉ツアーだった。
翌日(今日)は、小名浜の福島海洋科学館(近代的な水族館)を見学。トドやセイウチ、タマちゃんの様なゴマアザラシをひたすら観察し、大水槽で泳ぐ鰹の金属的な姿に感動したり、イワシの群れの動きに次期インスタレーションの予兆を感じて、昼食に海鮮料理を食べて帰ってきた。
仕事場に着いたら、雨の中で雨引の桜が咲き始めていた。
2004.3.27、
今日、日比谷通り(日比谷通りは片側3車線で、丸の内と皇居との間を走っている東京の玄関とも言えるきれいな大通りである。)を車で走っていたら、左前方の車が窓からプラスチックゴミをポイッと道路に捨てて行った。この馬鹿がと思い、少し追いかけたのだが、渋滞で追いつかない。仕方ないから車のナンバーを確認した。オイオイやっぱりそうか、と思った。
2004.3.25、
仕事を早めに切り上げて、つくばの電気店とPCショップに行った。その途中が渋滞していて、裏道を通ったのだが、その途中で、かっこいい木を見つけた。何がかっこいいたって、完璧に彫刻になってると言うか、彫刻やアートを遥かに通り越して、完璧なまでに空間と木のエネルギーが形を通してせめぎあっている超彫刻なのだ。その敷地の門扉には揚水機場と書いてある。木の手前脇にはミニマルアートの極致とも言うべき、コンクリート製の真四角のキューブ(約3m大)がドーンと建てられている。中に揚水機が入っているのかも知れないが、そんな事はどうだっていい。完璧なるシチュエーションである。
そんじょそこらの美術館や建築空間ではお目にかかれない程の空間と形とのコンポジション。密かな新名所に登録したのだが、木が芽吹いてくるとまた見え方が違う可能性が大。今が見頃だ。
*
ダンギ?
ダンギと言うと、先ず頭に浮かんで来るのが、ダンギの蒲焼きである。私が小学校の頃に一度食べた事があるが、こいつは最高に美味い。40年経ってもその味を覚えているのだから、相当に美味いのだ。
正式な学名は分からないのだが、ダンギは水のきれいな川の砂地に住む、ちょっとハゼに似た魚である。正面から見ると5角形の頭で、鯒を縦長にしたような格好なのだが、体調が大人で20cm前後、体色は砂地の保護色になっていて、淡い白御影石に似たきれいな砂の色をしている。私が子供の頃には、家の前の太田川という大きな川の至る所にいて、よく捕ったものだが、それ以後一度もお目にかかった事はない。絶滅危惧種?、もはや絶滅しちゃったのかも知れない。
ダンギの対局にいるのがギギュウなのだ。汚い水の淀んだような深場にいてナマズの様な体型とヌメリがあって、背鰭に毒を持っていてこれで刺すのだ。釣り針に掛ったり網にかかると直ぐに捨ててしまう、子供心に忌まわしい魚だった記憶がある。ギギュウももういないかなあ。