27   スズメがいなくなった日(緊急報告ページより移項)

スズメの死骸が仕事場の地面の上に転がっているのは、珍しい事だ。
ドキッとして辺りを観察した。スズメの姿が無い。何時もそこら中で戯れているスズメが何処にもいないのだ。梅の花がほころびるこの時期、多くの野鳥が飛び交い戯れている時期にしては、辺りが静まりかえっている。何か変だ!!
しばらく観察を続けて、カラスと大きめの野鳥の姿を2羽ほど見付けただけだ。

今年の2月の初め、広島に行く機会があった。私の実家の川向こうの山に、数百羽のカラスがいて、朝夕にはカラスの大群が飛び交いたむろしているのが見えたのだが、今年に入って、このカラスが一羽もいなくなった。何かが変だと、お袋が言っていたのを思い出した。
心臓が高鳴り背筋が寒くなった。

皆さんも、自分の家の周りにスズメがいるか?カラスがいるか?確認してみて下さい。
いてあたり前のモノは、意識内に残らない。居なくなった時、すべてが異様な風景に見えはじめる。
私の思い過ごしである事を願って。

2004.2.25、

私の家から仕事場まで23キロある。車で30分かかる。
今朝、沿路で見つけた鳥の数を数えながら、ゆっくりと仕事場に行った。スズメが12羽、カラスが15羽、スズメ以外の野鳥(渡り鳥を含む)20羽。これが少ないのか普通なのか?普段意識していないから分からない。何時もは至る所にスズメが居たような気がするのだが。
仕事場に着いて、再度観察した。野鳥を2羽とカラスを1羽、スズメを3羽発見した。もしスズメの姿を発見できなければ、保健所に電話する積もりで、電話番号を控えて来たのだが、今までと比べると閑散とはしているものの、スズメを3羽発見したので、取り敢えず電話するのは止めにした。

2004.2.26、

昨日の観察よりも、スズメの確認数が減った。
仕事場に行っても、スズメの数は昨日よりも少ない。耳をすませて辺りの音を聞いた。チュンチュンと何羽かのスズメの鳴き声が聞こえる。姿は見えずとも元気そうな鳴き声が聞こえる。かなり安心した。

2004.2.27、

京都で鶏が大量に死んだ。
日本での鳥インフルエンザは、最初に山口県で発症して、大分県に飛び火して、京都に飛び火した。兵庫県・岡山県でも鶏への感染が確認された。何故飛び火するのか?
鶏が感染する訳だから野鳥や渡り鳥も感染する。我々は野鳥の数や渡り鳥の数を、正確には把握してないから、何羽感染しているのか?どれだけ居なくなったのか?分からないだけ。

2004.2.28、

仕事場で石井さん(茨城県環境アドバイサー・野鳥の会幹事)にお会いした。今でも山には色々な野鳥がいるという話を聞いた。我々の一番近くにいる鳥、何処にでもいる鳥、スズメの観察をお願いした。

2004.3.1、

オランダで昨年流行した、鳥インフルエンザとの格闘の番組を見た。我々の想像以上に感染速度が早い。感染地域に入った車のタイヤにウイルスが付着して拡散したり、野鳥の可能性も否定できない。
日本での対応の遅疑遅緩さは、目に余るものがある。感染した可能性のある鶏を、死ぬ前に売ろうなんて、とんでもない話しで、はっきり言って重大な犯罪なのだ。
ウエストナイル熱(ウエストナイル脳炎)はアフリカで発見された伝染病で、蚊が媒介する。日本脳炎に似た症状で、感染すると死に致ったり神経障害が残る。ここ数年アメリカで大流行しているのだが、発端は、蚊がアフリカから飛行機でニューヨークに侵入したようだ。その後、渡り鳥を媒介にしてアメリカ全土に拡がりつつある。
詳しく知りたい方は下記へ。
ウエストナイル熱

我々を取り巻く環境は、日々スピード化グローバル化されて益々世界は狭くなっている。その文明速度に勝る俊敏な対応が必要なのだ。ウジウジと迷ってる暇に、瞬時に全世界に蔓延してしまう。

2004.3.3、

京都・大原にお住いのウエダさんよりメールをいただきました。
「いつもならうるさいくらいの鳥のさえずりが、このところほとんど聞こえなくて、とても静かです。」とあった。かなりヤバいかも。
人間は自分達の食用にしている鶏の感染ばかり気にしているけど、野鳥とて同じ鳥の仲間。鶏への感染が猛スピードで拡がっている中で、野鳥も危機的状況を迎えていると考えるのが普通だと思うのだが・・・。何とか食い止めなければ鳥類がいなくなる可能性もある。それとも、野鳥は生物学的に感染しない? 感染しても発病しない体質?

2004.3.4、

家の前の野原に、スズメの集団を見つけた。30羽あまりのスズメが、雑草の中で忙しく飛び回っていた。スズメがこんなに可愛い鳥だったとは・・・。
インフルエンザはスズメには感染しないか?色々と調べてみた。
鳥インフルエンザは、主に家禽類の体内で強毒化する事が分かった。基本的に水鳥のウイルスのため、水鳥の体内では強毒化しないらしい。
家禽類とは何か?家で飼う鳥の事で、卵や肉や羽毛をとる鳥の事、「鶏、家鴨、鵞鳥、七面鳥、ホロホロチョウを含む」とある。生物学的な分類に関して、野鳥と家禽類の区別は、調べが足りなくて不明。とにかく家禽類の体内で強毒のウイルス(H5,H7型)に変異するらしい。強毒化したウイルスが野鳥に感染するかどうかは不明。厚生省や農産省の通達に因れば、家や学校で飼っているインコ等の鳥が原因不明な死に方をすると、その鳥には絶対に触らず、直ぐに保健所に通達する等々のマニュアルがある。やはり野鳥にも感染すると見た方が良さそうだ。

2004.3.7、

浅田農産の周りに住んでいたカラスが死んでいたらしくて、カラスへの感染が報道されていた。
やっぱりカラスにも感染するという事は、スズメやウグイス等の野鳥にも感染する。
それにしても浅田農産の経営者の取った行動は、完璧に犯罪行為なのだ。彼等は鳥インフルエンザへの感染が分かっていたにもかかわらず、生きている鶏を全部商品にしようなんて、とんでもない連中だ。
大分のチャボ感染を公表した人のもとに、嫌がらせ電話が殺到したらしい、どんな嫌がらせ電話かと言うと、あんたが公表したために大分周辺で鶏が売れなくなったという苦情の電話らしい。

2004.3.8、

カラスの感染が話題になっていた。カラス感染で野鳥に広く感染して、渡り鳥に感染して、日本国中に感染が拡がる懸念がある、とテレビで言っていた。今さらそんな事言ったって遅いのだよ。と思った。違うチャンネルでは、鶏舎に入っていたカラスに感染しても、他の野鳥に感染するとは考えにくいと言っていた。ニブイ野郎だと思った。鶏舎に一度も入った事の無い、四国の鶏が何故感染するんだ? そして、カラスが鶏舎に入れて、スズメは入らないのか?
全国的に、野鳥の糞にも気を付けなきゃ。ウイルスは、水鳥や渡り鳥では、腸内で繁殖するんだ。

2004.3.10、

大阪でカラスの感染が確認されたようだ。京都の浅田農産の場所から相当離れている。京都のカラスが飛んで行った可能性が無くはないとテレビで言っているヤツがいた。危機感の無い相当にトロイ奴か、もしマジで言ってんなら、相当の怠慢か、事無かれ主義の八方美人か、もしくは国民の危機感に対する冒涜か、騙しか。
可能性として、10%くらいは京都から飛んで行ったカラスの可能性はあるかも知れない。でもそれを誰も確認できないんだ。だから皆が必至になって警戒し、危機管理を徹底しようとしているのだ。そうしなきゃウイルスは撃退できないんだ。それをさも京都から飛んで行った鳥の様に話すのは、知識人と銘打った輩の、マスコミを利用した犯罪に近い。
鳥が悪いんじゃない。人間の危機感の無さが、多くの鳥を殺す事になるし、ひいては自分達を死滅させる事にもなる。今の時代はそういう時代なのだという事を一人一人が認識するべきだ。人間にとって便利で容易くてグローバルを基調とする文明の背後には、自然という強大な危機が迫っている事を認識しなきゃ。



 中越地震

2004.10.29、新潟中越地震の被災者の方々に、心よりお見舞い申し上げます。
今すぐにでも救援に向かいたい思いで、新たな報道を見守っている今日この頃ですが、先日の朝、学校に向かう常磐道で、災害支援と書かれた自衛隊のトラックを数台見かけました。公的な立場で災害支援に向かう自衛隊の諸氏に、「よろしく頼む」と密かにエールを送ったのです。私にできそうな事があったら何だってしたいと思いながら、義援金を送る事しか思いつかない自分に、腹立たしさを覚えながら、行動力の無さを恥じております。
優太君が瓦礫の中から救出されるのをジリジリしながら見ていて、目頭が熱くなったのは私だけじゃないでしょう。お母さんと真優ちゃんが自らの身を挺して、優太君にエネルギーを与え続けたのだと思います。人間の持つ強靭な意思とエネルギーを見た気がしました。
避難民として着の身着のまま避難された方々に、一日一個の冷たいおむすびが配給された時、老人の方々が「有り難い事です」と心からおっしゃっていたのを目にして、社会の中での老人力の必要性を感じました。幾年生ける者の強さと優しさ、長年にわたって培われた基本的文化意識を感じた次第です。俺が私がとシャシャリ出る、似非文化・芸能・芸術人に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいと思いました。



 雨引始動

2004.10.17、「雨引の里と彫刻」が次回展に向けて始動を始めた。具体的な内容や参加作家、正確な会期は決定していないのだが、取り敢えず、またやるぞという事で新たな産声をあげ始めたのだ。次回で6回を迎えるのだが、展覧会が終わるとその都度、企画実行委員会は解散して、いつも白紙に戻る。そして、また一から立ち上げる展覧会なのだ。
昨今、世の中に媚びる展覧会や作家が多い中で、雨引だけは芸術・彫刻原理主義を貫いている様な気がしている。村起こし町起こしで立ち上げるのでもないし、世の中にセンセーションを巻き起こしたい訳でもないし、個として展覧会として社会に出たいとか歴史に残りたいとかと思っている訳でもない。ただひたすら自分にとって雨引の状況や風景が必要だと思うから、また一から始めようという気になるのだ。
特定のビジョンで纏め上げて、個々の作家が将棋の駒になる様な展覧会じゃない。野外室内を問わず、一般社会に出ての個展の集合体だと、未だに思っているのだが、そう言う意味で、個々の作品の善し悪しは、最終的に個々に帰結する。
ただ、今の社会を生きている者同士の集合体として、それぞれの作品の質、その高め合いの必要性を、回を増すごとにヒシヒシと感じている。雨引には、その許容量と可能性があると、個人的には思っているのだが。



 尾道

Onomichi2004年9月13日、水の国Museum104°の個展がオープンし写真撮影も終わった次の日、手伝ってくれた学生達と尾道に行った。
蒸し暑い日で、遠く四国連山に立ちのぼる入道雲を眺めながら、大汗をかいて美しい坂の街を歩いて巡った。尾道の市街地は、ご存知の通り狭い海峡を隔てた対岸に向島、背後には千光寺山、猫の額ほどの狭い傾斜空間に、迷路状の狭い坂道が広がっている。その坂道に寄り添いながら、段々畑の様に多くの寺院仏閣や文学館も含めて家並が広がっている。尾道に着いたのが午後2時を回った頃で、それら総てを巡る時間はない。取り敢えず五百羅漢のある天寧寺と、そこから細い路地伝いに千光寺まで上がって、文学の道を散策しながら街の眺望と家並のたたずまいを楽しんだ。瀬戸内の街は何所もよく似た心和む雰囲気があって、擦れ違う人たちは「こんにちは」と必ず挨拶を交わす。もちろん我々もチョットばかり遠慮がちに、擦れ違う人達とちゃんと挨拶をした。
Dock in nighttime
日が傾き始めた頃、心地よい疲労感とともに海峡の岸壁に腰掛けて、夕凪時のマッタリとした気怠い塩気の中に溶け込んでしまった。仕事帰りの人、家路に向かう車達を載せたフェリーボートが海峡を忙しく往復している。対岸の造船所のクレーン集団が不器用な格好で動きを止めている。20世紀を代表する鉄骨のモニュメントだ。
日がとっぷりと暮れて、対岸のクレーンが華やかになった。鮮やかなカラーライトに浮き上がったクレーン達は、各々の色と格好で、夜の帳が辺りを包み込むのを嬉々として楽しんでいるようだ。夫々が昼間クレーンの様にゆっくりと動き始めたら、まるで巨大な遊園地、すごい光景だよ。



 記念写真

Joshibi at Yana2004年8月、女子美の渡辺先生と学生3人が、大和村の私の仕事場の視察も兼ねて、真夏の陣中見舞い。都会からのゲストとの昼食は、何と言っても那珂川の大瀬のヤナである。鮎の串刺しを炭火の側に立てて、しばし川の流れに目を移す。
右の写真は、その時の記念写真である。
鮎の後に、しばし側の河原で水遊びをしてから、大田原で開かれている国際彫刻シンポジウムへ、陣中見舞いに行った。緑あふれる環境の中で、4ヶ国8人の参加作家の方達が、バリバリ制作していて、少しばかり制作のお邪魔をしてしまった。
日本・韓国・アメリカ・セルビアモンテネグロからの作家達との話に花が咲いて、楽しい一時だった。

Otawara-symposium大田原のシンポジウムは毎夏開かれていて、地味ながら着実に成果を上げている、質の高いアーチスト・レジデンス企画である。
世知辛いご時世の中で、こういう地道な企画が日本各地に広がる事を期待している。
左の写真は大田原シンポジウムの参加作家・アシスタント・関係者の方達と、我々5人の記念写真である。
大田原から帰って、夜は我が家で宴会だった。鳴りもの付きの歌で盛り上がったりして、私は夜中の1時頃酔いつぶれてしまった。若い連中は朝の4時頃までワイワイやってたらしい。



 大瀬のヤナ

yana-2(2004.7.6)、スタジオ第3工場をアトリエとしているメンバー5人の中で、近隣に在住し、ここで作り出す作品等を生活の糧としている3人(村井・鈴木・岡本)が、今年に入って共同制作物として石のベンチシリーズを作り始めた。これが結構講評で、今や三人が生きていくための主力商品となりつつある。作家として、それが良い事なのか悪い事なのかを議論する前に、先ずは目下の社会状況を乗り切るための手段として、オリジナル商品を持つ事は悪い事じゃないと割り切っている。我々の間では、これをMOSプロジェクトと呼んでいる。

それはさておいて、この石のベンチシリーズ3点の注文制作が大詰めを迎えた今日、このところの猛暑に堪えかねて、栃木県の那珂川沿いにある大瀬のヤナまで昼飯に出かけた。
第3工場で、それぞれの制作をしていた4人が一車に同乗して40〜50分、距離にして約40キロ北上して大瀬のヤナに辿り着いた。那珂川は鮎の遡上する清流である。鮭や五月鱒も上るらしいのだが、こいつ等は釣るのが難しいから、もっぱら鮎釣りの人たちとカヌーイストで賑わう川である。
仕事を一休みしてここまで来たからには、炭火で焼いた鮎と、生の大ジョッキは欠かせないアイテムなのだ。眼下の大瀬の流れは速いく、遠景に深緑の谷間をゆったりと蛇行する川面に目を細めながら、目の前ではカッカと熾った炭火の輻射で、串刺鮎の粗塩の結晶が白く浮き立って来て、大汗をかきながら冷えた生をグイッと呷る。あ〜〜〜〜〜〜。
田舎に住む者の特権として、これくらいの贅沢はたっぷり許されるのだ。
そうそう、本格的なヤナが出来上がるのが7月半ば過ぎらしくて、今日は川の中でヤナの製作中だった。yana-1川の半分を堰き止めて、丸太を川底に何本も打ち込み、それに横木を固定していく。下流に向かって斜めに立ち上がるヤナの骨組みを作っていた。竹と丸太を使ったインスタレーションの最中なのだ。岡には丸太を三又にして、それに竹籠を編み付けたオブジェが無数にあった(写真左)。籠の中に川石を入れて堰に使うのだと思うのだが、ヤナの素材にはプラスチックや金属類は一切見当たらない。さすがである。
上の写真は、炭火の前で鮎の焼けるのを待つ第3工場のメンバー、左から村井・鈴木・菅原。先程まで仕事をしていたから、みんな作業着だ。
仕事場に帰り着いたら3時半だった。また残りの作業を始めたのだが、日が傾いてきたにもかかわらず、気温38°。



 トラックのハブ

(2004.3.)、三菱自動車(三菱ふそう)が、自社大型トラックのハブをリコールした。やっぱり欠陥商品だった。といっても、そんな事、国民全員最初から分かっていた。往生際が悪いというか、屋台骨が軍事産業と結びついた会社は、防衛庁の傘の下で、何をやっても許されると言う昔ながらの通念が幹部にあったのか。いずれにしても、とんでもない会社である。
時期を同じくして同日、私のトラックに石を積み込むために、仕事場に乗って行った。私のトラックは三菱製の2トン・キャンターのユニック付き4駆である。仕事場に着いて、ふとハブの話を思い出して点検した。ところがである、なんと前輪の5本のナットのうち、2本がガタガタに緩んでいるではないか!!!。広島のタイヤ屋さんで、先月タイヤのローテーションをした事を思い出した。締め付けが足りなかったのか、欠陥か? 広島からトラックで帰って、それ以来ほとんど使っていないんだから、ナットの効いていない状態で高速を運転してきた事になる。背筋が寒くなった。他人事じゃないんだ。よく無事で帰って来れたもんだ。ひょっとして未だツキが落ちてないかも知れないと思う自分に、完璧なるオプティミストの片鱗を感じたりして。
行きつけのガレージに行って、締め付けてもらった。「こりゃー締め付けが足りないべ。タイヤが外れないでよかった」結局、タイヤ交換した広島のタイヤ屋の締め付け不足という結論に達したのだが、締め付け過ぎればハブのボルトに亀裂ができるし、締め付け足りないとナットが外れる。やっぱりどう弁解しても、欠陥車なんだ。
そう言えば我々仲間内では、三菱の車の後ろに付かないと言う、暗黙の言い伝えがある。なぜか? 三菱の車の後ろに付くと、真っ黒な排ガスに汚染されるからなのだ。黒い煙を排て走っている車の大半は、三菱デリカだったり、パジェロだったりするからなのだ。馬力を上げるためには努力をするが、環境汚染の事は全く考えていないんじゃないかと感じられる、会社の姿勢に大いに疑問を感じるのだ。そう言えば、ガレージの話だけど、新車のトラックで平成17年排ガス適合のステッカーが未だに張ってないのは三菱らしい。
こいつらこのままじゃ生き残れないな、と感じてしまう今日この頃なのだ。



 三寒四温

(2004.春)、このところの、日々の気候変動にはついて行けない。
窓を開けて暖かな春風を部屋一杯に溜める日もあるし、次の日にはストーブに火を入れる。辺りの田畑から砂嵐が吹きつける日もある。パッチを履かないと寒くて石の作業ができない日もあるし、セーターやシャツを脱がないと暑い日もある。髪の毛ザラザラで防塵マスクを着けないと息もできない日もよくある。
自然は大いに過酷だ。とは言っても、厳寒の地で作業をする訳じゃなし、砂漠の中で生きてる訳じゃない。温帯性気候の中でひたすらそそくさと生きているのだが、そらはそれなりに過酷だと感じてしまうのだ。今日は朝方からの雨が雪に変わって、制作に集中していたらあっという間に辺りが真っ白ケッケ、制作を中断して帰る羽目になった。
茨城の大和村で作品制作を始めて、かれこれ二十五年になる。昔の冬は寒かった。なんて老人の口癖じゃないけど、かつては広い沼が全面氷結していたし、友人連中と借りていたボロ家で部屋のストーブの上のヤカンが、朝起きたらバリバリに凍っていたりした。今は外に置いているバケツの水が凍ることも稀である。地球が暖かくなっているのを肌で実感している今日この頃なのだ。
話はスキップするが、最近生まれた子供たちにとっては、暖かくなった冬が彼らの標準なんだよなー。3月半ば過ぎに桜が開花するのが、彼らの体験の中で標準になる。地球温暖化が叫ばれている昨今、彼らにとっては最初っから温かいんだから、温暖化も糞もない訳だ。地球の絶対気温設定というものが最初っから無いんだから、暖かくなったとか寒くなったとかという議論は、あくまでも相対論でしかない。そこが問題なんだ。地球が暖かくなって南極の氷が溶けたって、オゾンが破壊されて直射日光がジリジリきつくなっても、至る所で砂漠化が進んだって、そういう過酷な状況がその時代の個人の絶対標準になる訳だ。昔の地球は良かったなんて、老人が焦点の定まらない目で話す一つの思い出話にしかならない。
人間にとっての地球環境が、ねずみ算式に悪化していくのは、仕方ない事だし、科学的なのかも知れない。逆に、環境がどんなに悪化しても、人間が生存できる限り、その時代の人にとってはそこそこの環境なのかも知れない。
「昔は足に板を付けて、冷たい雪の上を滑る遊びやスポーツがあったらしい、ローラースキーの方が簡単で面白いのに。」「自然の魚にゃ、ダイオキシンやヒ素なんかの有害物質が入ってるのに、昔は海で魚を釣って食ってたんだって。野蛮だよな。」「昔は日光浴をしてたらしい。よく死ななかったよな。」なんて会話が聞けるのも、そんな遠い未来じゃないかも・・・・・。
なんてことを考えながら、日々制作に勤しんでいるのだが、今年に入って未だウグイスの声を聞いてない気がする。何となく寂しいことだけど、その昔ウグイスが茨城でも鳴いていたんだと、焦点の定まらない目で言いたくはないのだ。



 目に涙の実験

(2004.春)、一昨日、目にゴミ(石の欠けら)が入ったみたいで、コロコロして気になってしかたない。昨日は目に涙を溜めて仕事をした。ちょと大げさだが左目が気になって、涙がジワーっと出るのだ。
石の仕事には付き物の疾患なのだが、私は特別で、目に異物は滅多に入らない体質だ。何故なら、目が小さいのだ。
普通の人は入る確率が高いけど、簡単に出る。私の場合は、滅多に入らないけど、入ったら出ないのだ。だから目医者に行くしか方法はないのだが、今回は医者に行く時間が無くて、何とか自分で取り出そうと試みた・・・が、失敗だった。やっぱり目が小さくて出ない。色々考えて、とにかく泣く事にした。涙をいっぱい出して、涙で眼を洗うのだ。いざ泣くとなると、泣けないもんだ。第一、泣く程の悲しい事がない。しかたないから、コロコロする左目に神経をグワーッと集中して涙を出す方法で、治療を試みた。溢れる涙が眼をジャブジャブ洗ってゴミを洗い出す。大成功だった。いつの間にかゴミが無くなって、コロコロしなくなった。
この話だけじゃ何てことない。涙を流しながら昔の事を思いだした。
 その昔、腎臓結石・尿道結石らしいものを、自己治療した時の事をフト思い出した。それ以来直った様で、秘策の治療は完璧に成功した、と思うのだが、全く理論的で、ふざけたやり方だから真似しない方がいい。ひょっとして危険な事なのかも知れない。
 ある朝突然、下腹部というか骨盤の内部と言うか腰の下全体が痺れるように痛みだした。それは今まで経験した事の無い様な、正に脂汗が滲んで来る鈍痛で、動くことも出来ないし呼吸もできない程で、救急車を呼ぼうにも電話の所に這っても行けないのだ。これは一体何だ? 俺はどうしちゃったんだ? 不安と痛みの極致で30分間、声を出しながら苦しんだのだが、その後、潮が引くように痛みは消え、全く普段と変わりなくなった。
朝の出来事は夢じゃないかと思いながら、でも何処かが変だと言う不安の中で、身体的には変わりない一日を過ごした。ところがその夜から、頻繁にトイレに行くようになった。尿意をもよおすのだ。
次の日から、とにかく30分間隔でトイレに行く。でもそんなに早く尿が貯まるワキャないんで、尿はほとんど出ない。寝ても醒めてもオシッコに行きたいのだ。
家庭医療辞典なるモノを買ってきて、症状の事例をあさり読みした。腎臓結石から尿道結石に移行する症状と酷似している。数日前の腰の痛みは、石が腎臓から尿管を通って膀胱に動く時の痛みと酷似しているし、その後の尿意は膀胱に入った石が尿道の出口に引っ掛かっている症状とそっくりなのだ。
普通はとっくに医者に掛かっている状況だが、その時期も忙しい時だった。とにもかくにも石が出れば直ると判断!!。 さて・・・、どうやって石を出すかが問題だ。理論的、空間的、彫刻的に、石のある空間を思い描いた。出口の締まった膀胱の空間があって、その出口の先には細い尿道があって、尿道の出口すなわちオチンチンがある。排尿器官の全体構造と、石の今あるだろう場所をイメージする。
恐らく膀胱内の尿道の出口に詰っていると考えられる。だから何時も尿意をもよおすのだ。
これを直すには、やっぱり病院に行くしかない。普通なら即病院に行く、のだが・・・。
私はある実験を思い付いた。石が詰るという事は、何処かが狭いからだ。その狭い空間を石が抜けられないから詰っている、もしくは引っ掛かっているのだ。要は狭い空間を拡げてやれば、石は外に出るはず。さてどうやって拡げるか? それが問題なのだ。
空間的、理論的、彫刻的、芸術的に考察すると、オシッコをする時は膀胱の出口の尿道括約筋(そんなのが在るのかどうか知らないが)の閉めている力が解放されて、その先の尿道が尿の圧力で少し拡がりながら尿が流れて行って、オチンチンの先から放尿になる。その排尿系全体を拡げるためには、排尿時に系全体の内側からの圧力を増やしてやればいいはずだ。そうならば、どうやって尿圧力を増やすのか?
尿の出口を強制的に閉じて放尿すること。一杯に溜まった尿全体の圧力と、膀胱の縮もうとする圧力を尿道口括約筋と尿管とに掛けてやれば、間違いなく全体が拡がるはずなのだ。拡がれば石が通れる空間ができる。すなわち石が尿道を通って外に出る筈なのだ。もし失敗すると石は尿道内に詰まる事になる。危険な実験だが、このまま放っておいても病院行きは間違い無い。
その方策を思い付き実験を決心した夜は、どんなに尿意をもよおしてもトイレには行かなかった。我慢に我慢をして翌朝、実験に踏み切ったのだ。失敗すれば、石は尿管に詰まって即病院行き。何れにしても病院があるから恐くは無い。とにかく自分の理論と身体空間の把握が正しかったのかどうか、実験するしかないのだ。
オチンチンの先をギュッと掴んで、一滴の尿も漏れ出ないようにして、覚悟を決めて、意識的に、オシッコをするという命令を脳に下す。膀胱の尿道口括約筋は一斉に解放される。一杯に溜まった尿が膀胱から尿道に流れる。でも尿道の先は私の手でストップされているから一滴のオシッコも出ない。膀胱の出口と尿道とが尿の圧力で膨れるのが感じられる。そして精一杯膨れ上がった所で、掴んでいた手を一気に離すのだ。当然オシッコは勢いよくドバーッと迸り出る。
詰っていた石も、尿の勢いと広い通路の確保でいっきに出るはずだ。確信があった。
結果的に石は完璧に出たようだ!!!。 尿の勢いの余り、出ただろう石は見逃したものの、膀胱内の石は無くなったようだ。尿意も全くの普段通りに戻ったのだ。

いちかばちかの理論的根拠に基づく空間的芸術的実験は、完璧に私の想定どうりに作用した。ウソのような満足のいく実験結果である。
くれぐれも、これは50%の偶然と100%の空間把握が成せる業として、決して再実験しないように。失敗すれば即病院行きなんだから。

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